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印仏学会、ポスト平川彰時代の仏教学のゆくえ

こちらを更新するのはすごい久しぶりです!


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先日、9月3日・4日と、東大で印仏学会が開かれました。
3日は店を開けていたのですが、おかげさまでいろいろとお買い上げいただきました!毎年東大でやってくれないかなぁと、正直思ってしまいましたよ…(笑)。



ともかく、今回もいろいろと興味深いご発表が目白押しでした。


前にも書きました通り、2日目は、「インド仏教研究の未来―ポスト平川彰時代の仏教学のゆくえ」という大変興味深いパネル発表を聞いてました。


案の定、大講義室は満員で、立ち見の方々も出るほどの盛況ぶり。


その内容は、下記で取り上げられてます。


moroshigeki.hateblo.jp


その中のZimmermann先生は、日本以外のポスト平川時代の注目すべき諸研究を列挙されてましたので、一応メモがてらここにその一端を記しておきます。

まずは、入手が容易で、たまたま店にもあったSchmithausen先生のこちらの浩瀚な著作。読みたいと思って手元に置いてはいるものの、なかなか進まない(汗)。

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その他にもいろいろ。


The Inception of Yogacara-vijnanavada (Beitrage Zur Kultur- Und Geistesgeschichte Asiens)

The Inception of Yogacara-vijnanavada (Beitrage Zur Kultur- Und Geistesgeschichte Asiens)


Nagarjuna's Middle Way: Mulamadhyamakakarika (Classics of Indian Buddhism) (English Edition)

Nagarjuna's Middle Way: Mulamadhyamakakarika (Classics of Indian Buddhism) (English Edition)


  • Paul Harrison(ed.), Early Mahāyāna, Stanford Univ.pr.

https://www.equinoxpub.com/home/early-mahayana/


他にも、下記出版社のサイトに上がってるいくつかを紹介されてました。

https://www.buddhismuskunde.uni-hamburg.de/en/publikationen.html



さて、私の方はといえば、今回、発表の申し込みが不採択となってしまったものを、同じ内容で大学院紀要に載せようと、目下論文作成中です。今月末が〆切。


量的には印仏よりも、長くかけるので、書きやすいといえば書きやすいのですが…。


あと、その時、ある先生にこちらの本をご紹介いただいて、早速入手させていただきました!




もし、ご関心ある方は、まだ残部があるようですので、こちらで是非!

漱石とインド哲学

今年の印仏学会の案内が届きました。実は私も発表の申し込みをしたのですが、応募者多数ということで、叶いませんでした…。


今年のパネル発表、「インド仏教研究の未来―ポスト平川彰時代の仏教学のゆくえ」がやはり人気でしょうか。Zimmermann先生、佐々木先生、松田先生、下田先生の興味深い発表がありますね。



さて、自分の勉強の方は、近頃は専らこちらを読んでました。


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そんな折、その方面の研究者の方の蔵書が市場に出たので、おもわず買ってしまったり。しかも、インド本(苦笑)。

個人的には参考になることが多そう。(一応)整理が追いついてないという理由で、ストックしています^_^;

しかし、この分野、英語とドイツ語は必須ですね。


ついでに、ネットを検索していたら、こちらを発見し、買ってしまいました。結構珍しいんじゃないかと思いつつ…。

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ドイツ語を勉強しながら、読まなきゃなりませんな^_^;


サーンキヤといえば、こちらを前から読みたいと思っていたので、ついでに買ってしまいました。


漱石文学の思想 (第2部)

漱石文学の思想 (第2部)


漱石サーンキヤを読んでいたというのは、本当だとしたら驚くべきところです。一応、漢訳としては六世紀に真諦訳の『金七十論』が出てますし、江戸時代にはそれに対する註釈書も作られています。大学時代は井の哲こと、井上哲次郎の印度哲学史講義に出てはいたようで、ヴェーダの講義に関する聴講ノートも漱石文庫に保存されているんだとか。あとは、同僚に姉崎正治がいて、彼からいろいろ仕込まれたというのも大きいのかもしれませんね。それに、イギリス留学経験もある漱石なら洋書で何らかの本を読んでいた可能性もあるのでしょうか。『吾輩は猫である』の登場人物・八木独仙のモデルは、ドイツのインド学者ドイッセンであった!?という説もあります。姉崎は彼の弟子にあたるわけです*1


仏教思想だけでなく、インド哲学までも取り入れていた!というのは正直驚きますが、本書の最後を、今西先生は次のように結んでいます。

真摯な思索者は単に西洋の新しい文化の吸収のみに専念したのではなく、絶えず東洋の古典と突合せながら模索を続けていた。漱石作品の検討を通じてこの問題を少しでも解明するとともに、それによって東洋文化の現代的意義を再認識する機縁とすることが出来ればというのが、著者の念願である。

サーンキヤ頌については、こちらが読みやすいと思います。しかし、最近は新刊では品切れとなっているようですが…。それに、こちらの本の帯にも「漱石が憧れたサーンキヤ」とありますね…。



ともかく、『草枕』をじっくりと読んでみたい気になりました。いろいろな読み方が出来るんですねぇ。

*1:

漱石の『猫』とニーチェ―稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち

漱石の『猫』とニーチェ―稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち

古代日本にインド人は来ていたのか?

先日、たまたまこちらの本を見かけました。大野先生の一大論考です。

弥生文明と南インド

弥生文明と南インド

日本の弥生時代に、南インドの巨石文化が海上の道を通って日本にもたらされ、文化と一緒に言葉も入ってきて、それまで使っていた言語にタミル語という新しい言語が流入したことが説かれています。注目したいのは、単に言葉の類似だけでなく、食べ物から金属器、機織、お墓の形態など生活風習という点で共通するものが多いということと、その平行性がほぼ同時期に見られるというところです。日本語のタミル語起源説というのは、専門家からは批判されてるようですが、言葉が文明とともに伝播してきたというのは、説得力があるようにも思われます。


シルクロードというと、仏教伝播の影響からか、インドから中央アジア、中国経由の北方ルートばかりが注目されますが、インドから東南アジアを経由した南方ルートもあるぞというわけですね。稲作は揚子江下流あたりから伝来したようですし、沖縄方言(ウチナー口)の中にはサンスクリットが残っているというのも聞いたことがあります。また、逆さ日本図というのを見れば、日本がフィリピンあたりから続く環太平洋文化の一環であることも分かります。


記録上、初めて日本の地を踏んだインド人というと、奈良時代のボーディセーナ(Bodhisena 菩提遷那 704-760)になるようですが、彼とともに日本に来た僧がベトナム(林邑)出身の仏哲だったというのも注目すべきかと思います。実際に、義浄の『大唐西域求法高僧伝』なんかによれば、当時のベトナムの仏教者は東南アジア経由でインドに渡り修行をしていたようですし、唐代中国など周辺国との交流は盛んだったらしく、このことからも、当時の奈良時代に、南方ルート経由で間接的にインドと交流があっただろうことが分かります。何を隠そう、この仏哲こそが『悉曇章』という、密教教典であり、日本の五十音図を成立せしめた文献を持参し、悉曇の教育を行った人物らしいのです。


chamstudies.net



かつて上村先生は、天台本覚論の背景にバガヴァッド・ギーターがあると指摘されました。いわば、日本仏教の梵我一如化です。インドで仏教がヒンドゥー教に呑み込まれて消滅したのと時を同じくして、日本でも仏教はヒンドゥー教化してしまったとも言えるでしょうか。ここでも時を同じくして同じような現象が起きているというのは興味深いところではありますねぇ。

インド論理学研究 第8号

昨日山喜房さんの前を通りかかったら、あの見覚えのある、青い表紙の論文集が積み上がってるのが見えました。今回は松田先生の還暦記念号だというのを聞いていましたが、内容の方も諸先生方の注目すべきものがいろいろ収められていましたので、買ってしまいました。安くはないのですが・・・(苦笑)。内容については、こちらで確認できます。


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スコイエン・コレクション仏教写本第四巻ももうすぐ出るそうです。

日本語で哲学する

以前から継続して読んでいたこちらの本、やっと読み終わりました。


和辻の著作は様々な領域にまたがってますが、初期から後期への思想的発展にひとつの軸を見出そうと試みています。人格主義の影響下にあった初期から、仏教研究に取りかかるのと並行して、その思想に変容が見られ、そこにハイデッガーなどの影響を受けつつ、後期の「間柄」へと繋がっていくのですが、とりわけ仏教研究を彼の思想発展の中に位置づけてるのが興味深い点だと思いました。その際、著者が注目していたのが「もの」と「こと」という、表現上のことばの問題です。表現される「もの」と表現された「こと」、本来不可分のはずの両者を「引きはがす」、そこに思想展開の鍵があるとみているようです。


和辻といえば、日本語で哲学することにこだわり、「日本語と哲学の問題」という注目すべき論文を書いていることはよく知られています。存在の問いを「存在」という漢語を用いずに、「あるということはどういうことであるか?」と言い換え、その問いは、なぜ、「あるというものは…」といえないのか?「もの」と「こと」はどう違うのか?我々が普段日常生活を送っている時に何気なく用いている言語には、反省以前の自己理解、存在理解が含まれている。こうした言語を掘り下げていき、普段あまりにも当たり前に用いられていて、改めて意味を問われても困ってしまうような日常語で哲学を試みたらどうなるのか?極めて面白い試みをやっていたのでした。


その辺はこちらが面白いです。特に前半部は、和辻が試みた、日常語でデカルトの「Cogito ergo sum」を翻訳するのですが、そこから生じてくる誤差、矛盾が西洋哲学のもつ問題点を浮き彫りにしていくのがはっきりと分かります。


日本語の哲学へ (ちくま新書)

日本語の哲学へ (ちくま新書)


もともと、和辻に興味を持ったのは、末木先生が高く評価してて、その哲学の出発点にしていたのをみて以来です。哲学者・和辻の主著である『倫理学』では、人間を孤立した個人として捉えるのではなく、もともと社会性を含み持った「間柄」として捉えています。それは「人間(じんかん)」「世間」という、いずれも元は仏教用語である日本語本来の語義に立ち返り、そこから改めて西洋哲学を読み直すことで、その問題をあぶり出すという形を取っていて、その結果が西洋哲学に対する強烈な批判になっています。

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

「我れのみが確実である」と書くのはそれ自身矛盾である。書くのは言葉の文字的表現であり、言葉はただともに生き、ともに語る相手を待ってのみ発達してきたものだからである。たとい言葉が独語として語られ、何人にも読ませない文章として書かれるとしても、それはただ語る相手の欠如態に過ぎないのであって、言葉が本来語る相手なしに成立したことを示すのではない。そうしてみれば、書物を読み文章を書くということはすでに他人と相語っていることなのである。いかに我の意識を問題にしても、問題にすること自体がすでに我の意識を超えて他者と連関していることを意味する。

一方の言語(あるいは文化)から他方の言語へ翻訳する場合、一方の言語では問題にならなかった点が、他方の言語で逆に問題となる、そのような言語と思考形式の相違というのも興味深いと思いますが、仏教も含めて日本語に含まれている歴史的背景、文化を顧みつつ、西洋哲学と対峙した、和辻の姿勢は実に面白い方法だと思ってます。中村先生は、和辻を比較思想の先駆者の一人に位置づけてましたが*1、まさにそんな感じがします。

和辻先生は決して西洋の哲学思想の単なる翻訳者や紹介者ではなかった。血肉の中に生きている東洋の伝統が体系の中心的な位置をしめていた。しかし教義やドグマを後生大事にまもっているようなものではなかった。人間の現実に即して考えようとする強靭な思索の立場―それが東洋の思想をこのようなかたちで生かしたのであった。これは未来の学徒に向って示唆するところの大きい先達の行跡である。


「血肉の中に生きている」というのがいいですね。

*1:比較思想の先駆者たち―地球志向に生きた二十一人 (1982年)

近代仏教スタディーズ

4月になり、2016年度もスタート。休学も終えて、復帰しましたが、そんな折、こちらの書籍が出ましたので、早速購入しました。

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

帯文に、「学校では教えてくれない近代史!」とありますが、明治以降の近代日本社会のなかで、陰に陽に影響力を持った仏教の存在を、歴史学、文学、社会学などの諸研究者がそれぞれの切り口で概説されています。近代仏教の定義からまず始まり、そしてそのグローバル性、大学・学問としての側面、メディア面の拡大など、近代仏教の特徴が前半部で解説されます。後半は、この本のなかの白眉とも思われる人脈相関図が詳しく書かれてます。西本願寺系、浩々洞、求道学舎、新仏教、国柱会、ユニテリアン、オカルト、海外仏教者、哲学館系、帝国大学系、女性仏教者・・・などの角度から詳解されてますが、その次のブックガイドとともに貴重なものだと思います。教科書風で読みやすく、秀逸な似顔絵のイラストもそれに華を添えてます。


よくよく考えてみれば、我々現代人が“仏教”に関心を持つとき、その“仏教”というのはすでに「近代仏教」というフィルターを通したものになってます。そもそも「仏教(Buddhism)」という言葉自体、近代の所産というのもありますし。そういう意味で、「近代仏教」という新しい視点を持つことは非常に有益ですし、この本がそのための最良の入門書になることと思います。


本書のブックガイドにも載ってますが、個人的にも非常に参考になったこちらを、あえてここでも紹介させていただきます。

ブッダの変貌―交錯する近代仏教 (日文研叢書)

ブッダの変貌―交錯する近代仏教 (日文研叢書)

明治思想家論 (近代日本の思想・再考)

明治思想家論 (近代日本の思想・再考)

近代日本と仏教 (近代日本の思想・再考)

近代日本と仏教 (近代日本の思想・再考)

神々の闘争 折口信夫論

ひと段落ついたので、息抜きの読書。

神々の闘争 折口信夫論

神々の闘争 折口信夫論

言語情調論 (中公文庫)

言語情調論 (中公文庫)


安藤礼二さんの本は、これまでにも読んできましたが、こちらを再読。個人的に、この本によって、私は折口信夫に出逢い、衝撃を受けました。安藤さんによれば、折口のこの『言語情調論』には、後に展開するあらゆるテーマが濃縮されているという。それは、象徴としての言葉、直接性としての言葉、「純粋言語」とはいかなるものか、というもの。


本書の功績の第一として、そうした折口の出発点が同時代の思想運動から決して孤立したものではなく、エルンスト・マッハからフッサール現象学ロシア・フォルマリズム、ジェイムス、ベルクソン西田幾多郎・・・これら世界の思想と密接に連動しているのを明らかにしたことでしょう。そして、折口と昭和の超国家主義アジア主義、それに連なるイスラームとの関係、そこから井筒俊彦への影響にまで言及しているのが第二の功績で、その辺は正直いって驚きをもって読みました。とりわけ、イスラーム神学における神と預言者の関係と、折口の描き出した神(ミコト)とミコトモチとしての天皇の関係との近似性にまつわる部分。両者の合致は単なる偶然というわけでもなく、藤無染を介して影響を受けたキリスト教の異端ネストリウス派イスラームの母胎ともいわれるらしい)の存在が浮かび上がってくるわけですが。



息抜きついでにこちらも購入しました。発売されてから、1年半。ようやく手にしましたが、入手するまでにそれだけの時間を要したのは、これだけの大著を読みきれるか?自信がなかったからなんですが、これからゆっくりと時間をかけて読むことといたしましょう。


折口信夫

折口信夫

本書の帯には、若松英輔氏をはじめとする方々の推薦文がありますが、以下の文章は私の実感と一致します。

折口信夫の名前はよく知られている。しかし、この人物の生涯に何が潜んでいるのかを私たちは、安藤礼二の登場まで、ほとんど何も知らなかったのである。(若松英輔

安藤礼二は思想史という時空間に、壮大な曼荼羅を描く人である。過去の思想家たちが時空を超えて有機的に結びつき、一つの宇宙を構成する。(中島岳志

安藤氏のすごいところは、その文献渉猟的なところにあるといって異論はないと思いますが、ご自身が冒頭の書「あとがき」で述べられているところでもありますが、著作自体が書物論として構成されているところだと思います。本を読むとはどういうことなのか?

折口がさまざまな書物から繊細な手つきで紡ぎ出し、一つの美しい体系へとまとめ上げた音楽を、できるかぎりその発生状態のままに、あらためて聴き取り直すこと。それが、本書でまずはじめに意図されたことである。

一冊の書物のなかには、一つの音色が隠されている。そのかすかな音を聴き分け、さらには他の書物から抽出されたいくつかの音と交響させ、そこにいまだかつて誰も聴いたことがなかったような音楽を奏でること。「作家」とは、おそらくそのようなことができる人物を意味するのであろう。


このあたりは、文献学に通じるところでもあり、大いに参考になるところです。