ブログのタイトル変更

こっちの方は大分ご無沙汰でしたが、このたび、ブログのタイトルを変更してみました。

 

自分の場合、仕事、家庭、その他の趣味などある中で、片手間に趣味の一環で勉強してるだけなんで、一端に研究って名乗っちゃっていいのかなと・・・(笑)、しばらく前からそう感じていました。あくまでも、読書日誌とした方が分相応かな、と(笑)。もともと、多くの方にご覧いただいてるようなブログでもないし、こんなこといちいち書かなくてもいい気もしますが・・・(^^;;

 

これからは、自分の関心の赴くままに、気楽に綴っていこうと思います。

 

 

さて、ちょっと前に、アランの幸福論を読んでて、アランの背後にはどうもセネカがあるだろうと思い、最近はセネカを読んでました。

 

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

 

 

 

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

 

 

読んでて思うのは、何か仏教と重なるところが大いにあるというところ。とりわけ、ストア哲学が、哲学ではありつつも、いかにして怒りや不安、恐れ、悲しみなどの情動に左右されない“心の平静”を手に入れるかという、多分に心理学的な実践哲学でもあるところが注目されます。

 

 

そのあたりの解説書としては、以下のアーヴァイン氏の本がすごく参考になりました。 

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

 

 

 

欲望について

欲望について

 

 

心の平静が目的だなんて、仏教そのものだし、ヘレニズム期において、そういうのが言われだすところが面白い。だいたいにして、北アジア老荘思想が栄えた頃にストア派は誕生してるし、ストア派の人物の多くはフェニキア人で、もとからのギリシア人ではないし、インドからの影響を見逃すことはできないでしょう。

 

 

なんてことを仏教の研究をしてる方に言うと、ふーん、とか、へぇーということで済まされてしまうので(笑)、こういうところに書いておこうと思ったのですが・・・。

 

 

ま、それはともかくとして、最近こちらの本を読み始めました。著者のピエール・アドによれば、古代ギリシア・ローマにおいて、哲学とは生きる道として、何らかの宗教的(スピリチュアルな)実践として解釈されていたことになりますが、ストア派において、そういう実践がどんな役割を果たしていたのか?仏教的な精神修行法との関連は?などなど興味を惹かれるところは大きいです。

 

Philosophy as a Way of Life: Spiritual Exercises from Socrates to Foucault

Philosophy as a Way of Life: Spiritual Exercises from Socrates to Foucault

 

 

なんか、自分のやってる研究(もどき?)からどんどん離れていってますが(笑)、それはそれとして、やっぱり、興味本位で行くのが一番いいのかなと・・・自分を納得させているところです。

 

 

本来の研究の方は、最近自分では買えない本を研究費で買って、一応、細々とやっております。11月の発表会までに、ひとまず、まとめなければ…。

 

中論註釈書の研究―チャンドラキールティ『プラサンナパダー』和訳

中論註釈書の研究―チャンドラキールティ『プラサンナパダー』和訳

 

 

 あとこちらの本もちょっと必要になったので買わなきゃ。昔、買っとけばよかった。 

縁起の思想

縁起の思想

 

 

 というわけで、まだまだ研究を諦めたわけではありませんので(笑)、これからもよろしくお願いいたします。

『楞伽経』と『ヨーガ・ストーラ』との関係について

大学院紀要に掲載の論文が公開されました。

 

archives.bukkyo-u.ac.jp

 

本稿では、『ヨーガ・スートラ』、『ヨーガ・バーシュヤ』と時代的に近く、共通する語も多い『楞伽経』との関係に注目して、その影響関係について、他の瑜伽行派の文献も視野に入れつつ、cittaの定義を中心に考察する。その結果、『ヨーガ・スートラ』と『ヨーガ・バーシュヤ』、『楞伽経』におけるcittaの定義には、共通する部分が多いことを確認でき、三者の間に密接な影響関係があっただろうということが分かった。そうした『ヨーガ・スートラ』との共通部分は、『楞伽経』の原型であり同経の素材集ともされる「偈頌品」中に比較的近い形で見られ、本文中ではそれをさらに発展させていることも分かった。以上から、『楞伽経』を作成した人物は、瑜伽行派の正統派というよりも、むしろヨーガ学派と親密な関係を持った人物であり、『ヨーガ・スートラ』と共有する部分を、唯心思想としてさらに発展させていったのではないかと推測されることが分かった。

 

 ご批判、ご感想、お待ちしております。

虚妄なる分別?

今年もよろしくお願いします。

 

昨年末に届いた印仏研。

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その中で、実際に発表も聞いていて、すごく面白かったのが、同じ佛大の院生、金俊佑さんの以下の論文。

 

複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か

 

虚妄分別 abhūtaparikalpaは「虚妄なる分別」という風に日本語として表記されることが多い。長尾雅人先生しかり*1

 

「虚妄なる分別」という訳語はabhūta-parikalpaという複合語を、前分と後分が同格とみなすkarmadhārayaとして理解していると考えられる。

 

しかし、実際の文献中に見られる解釈は、abhūtaをgrāhyagrāhaka(所取・能取)と言い換えて理解され、虚妄分別は、所取と能取(という虚妄なもの=遍計所執性=無)に対する分別(=依他起性=有)として、tatpurṣaとして解釈されていると金さんはいいます。言い換えるならば、abhūtasya parikalpaであると。

 

したがって、「虚妄なる分別」という訳語はおかしいことになります。

 

実際、その辺、(自分も含めて)結構曖昧に理解されてきたふしがあると思います。無意識に「虚妄なる分別」と用いてこなかったか?

 

その辺はすでにこちらでもいわれてますが、漢訳語である「虚妄分別」という語から、日本語の感覚に引きつけて解釈された理解が「虚妄なる分別」なのかもしれません。しかし、インド的な文脈、サンスクリット本来の意味からいうと、そうはならないというわけです。

 

うーん。

 

ともかく、この発表の後の質疑応答が盛り上がっていたのはいうまでもありません(^^)。

 

そういえば、来月にこちらの本が出ます。

 

虚妄分別」とは何か、です(^_^;)

 

虚妄分別とは何か: 唯識説における言葉と世界

虚妄分別とは何か: 唯識説における言葉と世界

 

 

*1:

大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)

Schmithausen Collected Papers Vol.1

今年もいよいよ押し迫ってきました。

 

仕事は昨日まで。店は28日まででしたが、昨日はちょっとお客さまのところへ出張。今年の仕事はこれで終わり。

 

先日、『印仏研』と一緒に、来年3月発行の大学院紀要の初校が来る。枚数オーバー、1ページ分削除要請・・・(笑)。調子に乗って、盛り込みすぎた(笑)。

 

ともかく、今年はその論文1本書けたので、良しとしたい。

 

さて、昨日は山喜房さんで、出たばかりのこちらを購入。

ドイツ語の論文ばかりで辛いけど(笑)、勉強します!

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あと、こちらも先日購入したのだった。

北京大学の叶少勇先生による批判的校訂本を底本にした新しい現代語訳。

 

龍樹『根本中頌』を読む

龍樹『根本中頌』を読む

 

 

後半は一般向けの解説という体裁になっているので、その解説目当てに買ってみました。唯識や三性説などを予想させるような文言も見られる、龍樹文献群の作成された時期は、『解深密経』や『楞伽経』など中期大乗経典の作成された時期と重なるわけでして、自分としてはその辺の絡みに興味を持っています。

 

 桂先生は、この本の前に英訳も出されていますね。

 

Nagarjuna's Middle Way: Mulamadhyamakakarika (Classics of Indian Buddhism) (English Edition)

Nagarjuna's Middle Way: Mulamadhyamakakarika (Classics of Indian Buddhism) (English Edition)

 

 

 正月休みは、溜まった仕事をやらないと・・・という感じです(笑)。

 

皆様、よいお年を!

 

 

 

古代金属国家論

先日、書店に立ち寄った時にこちらの本を見つけ、立ち読みで読み終えちゃうくらいの薄い本でしたが、内容が内容なだけに買っときました。

 

元版は、1980年に出たもので、その復刻になります。

 

日本の平野の真ん中に点在している闇の空間である霊山にいる山伏。

 

彼らは、古代空間において、決して、単なる宗教家、呪術者というだけでなく、高度な科学技術者として様々な文化の担い手になっていたという。そして、その科学技術(とくに金属資源)というのが当時の国家権力の根本を支えるものであって、奈良の大仏造営や、奥州藤原氏の平泉黄金マンダラなどに結晶していく。

 

考えてみれば、古代日本呪術の震源地である葛城から生駒にしても、出羽三山なんかにしても、みんなそこが鉱物や薬草など植物の産地になっている。古代金属文化論という視点に立つと、そこをアジールとし、当時の先端科学である煉丹術にも精通していた山伏の存在を、国家権力が野放しにはしておけなかったのだろう。実際に、高僧のミイラ、即身仏というのに、中国道教の古代化学の痕跡が見られるそうだ。

 

この本を読んで、こちらを思い起こす方も多いと思います。

 

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佐藤氏といえば、密教錬金術と深い関係にあり、それをインド古代科学技術にまで遡って解明されていることで有名だ。

 

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空海のミステリー―真言密教のヴェールを剥ぐ

空海のミステリー―真言密教のヴェールを剥ぐ

 

 

 しかし、こうした佐藤氏の著作に先駆けて、冒頭のような本が出てるいたのには驚いた。しかも、内藤正敏氏は理工学部出身で、山伏の修行経験もある異色の写真家で、これ以外にも興味深い著作をいくつも出されている。

 

遠野物語の原風景 (ちくま文庫)

遠野物語の原風景 (ちくま文庫)

 

 

 

 

修験道の精神宇宙―出羽三山のマンダラ思想

修験道の精神宇宙―出羽三山のマンダラ思想

 

 

 

日本「異界」発見 写真集

日本「異界」発見 写真集

 

 

写本を読む

今、写本を読んでます。

 

まず、その文字に面食らい、慣れるまで時間を要しましたが、その文字を解読して、複数の写本と比較して、さらにチベット訳、漢訳とも比較して校訂テキストを作らねばなりません。私が読んでいる経典は今からおよそ100年前に、当時入手し得る写本を用いて作られた唯一の校訂テキストがありますが、その後にいくつもの写本が発見され、それらを参照した上での校訂本が求められています。思想を研究するにも、まずは正しいテキストを選定する作業をしなければならないわけです。

 

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写本には単純な誤記はもちろん、文法的におかしなところ、文字の判別が難しい部分も多くみられます。それらを吟味するということは、自分の能力が問われているのに等しいので、何か妙なプレッシャーを感じてしまう(笑)。それに仏教梵語の問題、韻律など、考慮すべき点が多いのも厄介なところ。一人で読むには限界がありますので、先生の指導を受けるべく、今月の土曜日は連続して京都の本学まで行ってました。

 

 写本といえば、最近はチベットに注目が集まっています。まだ眠っている、公開されていない貴重なものが多くあるようですので、早く見られるようになるといいですね。

 

A Unique Collection of Twenty Sutras in a Sanskrit Manuscript from the Potala (Sanskrit Texts from the Tibetan Autonoumous Region)

A Unique Collection of Twenty Sutras in a Sanskrit Manuscript from the Potala (Sanskrit Texts from the Tibetan Autonoumous Region)

 

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近代仏教といえば…

最近読んだ本としては、以下のものがあります。


入門 近代仏教思想 (ちくま新書)

入門 近代仏教思想 (ちくま新書)

明治になって西洋哲学が流入してきたときに、日本人がどのようにそれを受け入れたのか、そこが簡潔にまとめられていて、参考になりました。今とはまったく異なる受け入れ方、とりわけ『大乗起信論』によって、西洋哲学を受け入れたというのも何とも興味深いところです。


欧米列強の脅威に対抗しようとしてナショナリズムが起こったときに、西洋思想に対抗しうる思想として、その理論的な依り所に『起信論』が使われているというのは、前に触れましたが、面白いところです。

furuhon-ya.hatenablog.jp



時代時代によって、さまざまな受け取られ方がされているところも、まさに古典!という感じ。「原始仏教」という原理主義によれば、起信論は仏教にあらず!ということにもなりかねませんが(苦笑)、それだけ評価が分かれるのもまた古典の古典たる所以でしょう。


その『起信論』にも影響を受けた哲学者の一人、清沢満之の研究が最近では進んでいる感じです。岩波から新しい全集が出て以来、関連書籍も頻繁に出ているように思います。最近は以下の本を読みました。この本は、清沢を哲学者として捉えようとした最初の試みだと思います。なぜ、哲学者が清沢に興味を持ったのか?その辺からはじまってますが、清沢の哲学がヘーゲル哲学を土台にしていて、そこに仏教の縁起論を組み合わせ、存在論、自然哲学から人間学に至る壮大な構想を持っていたのがよく分かる内容になってます。


清沢満之の思想

清沢満之の思想




というわけで、手軽なこちらを買って、今読んでいるところです。

清沢満之集 (岩波文庫)

清沢満之集 (岩波文庫)



近刊としてはこちらもありますね。

清沢満之と近代日本

清沢満之と近代日本


西洋哲学一辺倒になるのではなく、仏教をはじめ東洋の思想的伝統をも参照し、それらを止揚しようとする試みがなされていた近代日本の思想状況に驚くとともに、非常に興味を惹かれます。もっとも、清沢の場合は、仏教を現代的に復活させようとして、西洋哲学を取り入れたという側面が強いのかもしれませんが…。


個人的には、今やってることが終わったら(or 頓挫したら 笑)、この辺をやってみたい気持ちがあります。一応、起信論を起点に、これまではインド方面に関心が向かっていましたが、それがひと段落付き次第、今度は近代日本哲学へシフトしたいです。