古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

YOGA BODY

私は別にヨーガを実践しているとか、そういうのではないのですが、ここしばらくは、パタンジャリのヨーガ・スートラとその注釈書を読んでましたので、その関係で、この本が気になって買ってみました。

ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源

ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源

今日、私たちはヨガと言えば独特のポーズを連想するが、ポーズ練習を中心に据えたそのスタイルは、なんとインド古来のものではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての近代化に際して、欧米の体育、ボディビル、女子体操などの要素を取り入れながら、インド国民のための体育の技法として創られたものだった! ヨガ実践者が読んでおくべき最も洗練されたヨガの教養書のひとつであり、近現代の歴史書としてもすこぶる興味深い一冊。


「伝統は創られる」、それは何もインドに限った話ではなく世界中に見られることですが、近代のヨガが古典とは断絶したもので、欧米の身体文化、健康志向、政治的社会的な思惑・・・など様々な要素が絡み合った結果出来上がったものだというのを文献的に跡付けようとしているのは圧巻といえるでしょう。巻末の文献リストも参考になります。


本書の最後に、興味深いエピソードが紹介されてます。それは、近代インドのヨガと近代のオリンピックが、同じ根を持つ精神性―心身相関のフィットネスの理想を持つギリシアの影響―に由来していて、最初のアテネオリンピックと、ヴィヴェカナンダの『ラージャ・ヨーガ』の刊行が同じ1896年であったという事実です。奇しくも同じ年に、近代の身体文化と近代のヨガが国際舞台に現われたというわけですが、まさにこれはヨガと身体文化の結びつきの象徴といえるのではないかと結んでいます。

史上最高の「序文」と「出版後記」

こちらは、店番をしながら思わず手に取り、読んでしまった本。

漢和辞典に訊け! (ちくま新書)

漢和辞典に訊け! (ちくま新書)

ちょっと前に出た本ですので、読まれた方も多いと思います。
著者は漢和辞典の編集者を長年務められた方で、初心者が漢和辞典を使う際の引き方から始まって、漢和辞典によって、漢字の音読み、成り立ちを調べるなど、その用途を実例を挙げて説明してます。

漢和辞典は「わかりやすい」書物ではない。読み解くには、少々の予備知識が必要だ。たとえるならバイオリンのようなもので、初めて手にした瞬間から、すぐさまたのしめるようなものではない。楽器らしい音を鳴らすことができるようになるまでには、それなりの訓練が必要なのだ。


古典語というのは、辞書を引いて使いこなせるようになるまで、時間がかかるものです。漢和辞典も然り。個人的には、仏教をやっていると、呉音読みの縛りがあるので、漢字の読み方を調べるなど利用することはありますが、それほどの頻度で使ってるわけではありません。しかし、一を調べて十を知る、そんな漢和辞典の使い方を教えられた気がして、もっと利用したい気持ちになりました。


一気に読める感じで、それでいて随所にいろいろなことを教えてくれる良書です。
思わずこちらの本を思い出してしまいました。

『大漢和辞典』を読む

『大漢和辞典』を読む


本書の中で、『大漢和辞典』の諸橋先生の序文と、出版社・大修館書店社長による「出版後記」は何度読み返しても、熱いものがこみ上げてくると言われてますが、それもむべなるかな。こんな「序文」と「出版後記」って他にあるだろうか?と呼べるレベル。人の生き方とは何か?それを示しているかのようなレベルのアツいものです!


kanjibunka.com

kanjibunka.com

この辞典には、約三十五ヶ年間に亘る私の魂が打ち込んである。私存命中に再び版を新たにすることは出来まい。将来補筆出版の必要が生じた際は、私の子孫が責任をもって、大修館書店の名前のもとに必らず遂行するよう申し置いて行く。この辞典が世の中に一揃いででも残って活用される限り、諸橋先生と共に私の生命が永遠に続くものと確信して、ここに出版後記とする。


大漢和辞典』の初版全13冊(縮写版)は、1万円も出せば全巻買えてしまう時代になってしまいましたが、「一国文化の水準とその全貌を示す出版物」としてそれだけ普及したということなんでしょう。冒頭の書を読んで、何だか、大して使えもしないのに、なぜか諸橋大漢和を手元に置きたくなってしまいました…(笑)。

休学を終えて…

2016年も気づけば2月・・・。

遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。


来月で3年に及んだ休学期間が終わります。復学するか、退学するか、選択を迫る通知が大学事務局から先日来ました。
その通知とともに、私の先輩の博士論文公開口頭試問の通知も届く。


その素晴らしい研究を目の当たりにして、果たして、復学して自分にもそのような博士論文が書けるのか?自問自答を繰り返しておりました。いくら考えても堂々巡りになってしまいますので、結局は、これから自分で答えを出していくしかないのでしょう。その間、仕事の方もいろいろあって、あと最近マラソンにハマって、勉強そっちの気で走ってばかりだったり(笑)、そんなんで更新が遅れてしまいました。


前から常々思っていることですが、こういう、自分が行き詰ってこれからどうしようかなと思っている時に限って、どういうわけか、知り合いの先生であったり、学友であったり、そういう方々がふらっと店にいらっしゃる。まるで、こちらの窮状を見計らっているかのように(笑)。そこでいろいろお話させていただくことで、自分も何かしらのパワーをもらって、自分もやらないとなぁと思い直すことができる、そういう経験が今まで何度となくありました。まさに「有朋自遠方来、不亦楽乎」。


気づけば、今年の9月開催の印仏学会の案内も来ていました。以前ちょっと触れましたが、ヨーガスートラと楞伽経というような内容で発表できないかと思ってます。


furuhon-ya.hatenablog.jp







 

年末年始の読書

今年ももうすぐ終わり。毎年この時期になると、ついついいろいろと本を買ってしまいます。

まずはこちら。

漢文入門 (学芸文庫)

漢文入門 (学芸文庫)

なんか、いつも「漢文入門」という本が出るたびに買ってしまってる気がする。いつまでたっても読む力がないからなんですが、この本は漢文を読むためというよりは、そもそも漢文とは何か?というところに焦点を当てている、非常にユニークな本です。前書きに、「「漢文」を宣伝するためでもなく、「漢文」の学力を増進させるためでもなく、ただ「漢文」とはどのようなものかということを明らかにするだけの目的で、私はこの本を書く」とあります。訓読についても原理原則を平易に解説し、それが歴史的に成立する過程も紹介されていて、日本人がどのようにして漢文を読んできたのかが簡潔に分かるようになっています。それを通して、日本人にとって漢文とは何か?という一種の文化論にまで達している点で、他に類書がない入門書になっていると思います。興味深く読ませてもらいました。



次はこちら。

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

出たのはもうかなり前。末木先生は多作ですので、読みこぼしも結構あって、市場で見かけて気づくことも多いです。その都度買い求めては読むようにしてます。哲学と仏教双方に通じておられ、それらを消化された上で、独自の宗教哲学を展開されている末木先生ですが、その哲学の基点には、他者、死者という<語りえぬもの>を如何に語るかというのがあると思います。その<語りえぬもの>には、<私>というのも含められます。<私>は自分で統御できない多くの不透明な闇を抱えている。<私>によって知られず、<私>の自由にならない<私>は本当に<私>といえるのか?<私>は「どうしようもない」<私>(山頭火)でもあるがゆえに他者でもあり、他者は「私に対して何をしでかすか分からない」存在で、それによって日常の世界は常に突き破られ、<私>に迫ってきます。そうした現場にこそ、宗教と哲学が生じてくるというのが著者の立場で、本書は上田閑照著『私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))』への書評に始まり、和辻の「人の間の」倫理に触れつつ、田辺元の死の哲学、清沢満之の哲学、後半は現在の問題について展開していきます。仏教をはじめとする観点から、西洋哲学を相対化しているその深い考察にはいつも感服させられます。



最後に、こちら。これは年末年始の休みに読もうと買ってしまったもの。木村泰賢という方はおよそ100年前に活躍された仏教学者で、宇井白寿と同期で、いわば近代仏教学の先駆者、「道なきジャングルに進歩の大道を切り開いていった巨人」*1といわれてます。特に高楠順次郎との共著である『印度哲学宗教史』や『印度六派哲学』は、日本で初めてヴェーダからウパニシャッド、各学派の成立を直接原典に接してまとめたものであり、その意味では記念碑的なもの。100年前とはいっても、まだまだ現代にも読み継がれてまして、現在はオンデマンド版として出ています。その他、アビダルマの三世実有の時間論を映写機のモデルを使って説明したというのも有名ですが、ヨーガ学派への仏教の影響を論証した「印度仏教と瑜伽哲学との交渉」など個人的にもいろいろと眼を通しておきたいのも多いので購入しました。

新国訳大蔵経 楞伽経

早いもので、今年も残りわずかとなってきました。例年12月前半は慌ただしくなります。まずは、古書会館での大市が準備期間も入れて丸一週間あり、その間ずっと店を留守にしてました。そしてその後は、自店の目録発行とその対応、その合間をぬっての出張買取と本の整理、店を空けることが多かった分、仕事も溜まり、残務整理も多くなります。

そんな中、新国訳大蔵経から楞伽経(四巻本)が出たようです。高崎先生の仏典講座『楞伽経』に、堀内先生が追加する形を取っているらしく、そのために御二方の共著という体裁になっているみたいです。まだ手元にないので、何ともいえないのですが、四巻本は今まで高崎先生の部分訳を除いて国訳(いわゆる書き下し文)が出てなかったので、ようやくという感じでしょうか。私も早く見てみたいのですが、もう少し時間がかかるようです。

楞伽経 (新国訳大蔵経[インド撰述部]8如来蔵・唯識部2)

楞伽経 (新国訳大蔵経[インド撰述部]8如来蔵・唯識部2)

インド仏教思想の宝庫でありながら、禅仏教の「不立文字・教外別伝」の拠り所となった経典、『四巻楞伽』の全貌!
初期禅宗以来、中国・日本で重要視された『四巻楞伽』。しかし多岐にわたる思想内容と曖昧な表現に加え、梵文の語順のままに漢語を配列した特殊な訳文が頻出するこの漢訳経典を、漢文脈のみから理解することは甚だ困難であった。
本書は、梵語原典・チベット語訳・他の漢訳との厳密な比較対照を踏まえて、難解きわまりない経文の論旨を丹念に読み解いた、待望の訳註書である。

この解説にありますように、四巻本は、漢文としては難解ですが、梵文の直訳調になっているため、元のテクストの推定に役立つという面もあり、テクストとしての重要性は高いと考えられてます。そこで、常盤先生の研究があるのですが、これは私家版のような感じであまり見ることもなく、入手困難な状況でした。というわけで、今回の新国訳大蔵経は当に待望の書という感じです。

ブッダは実在しない

書店に立ち寄った時に偶々見つけてしまい、そのまま買ってしまった本。見事にタイトルに釣られてしまった感じです。

一般的に仏教は“ブッダ”によって始められたと考えられてます。しかし、“ブッダ”という言葉はもともとゴータマ・シッダールタという人間のみを指す固有名詞ではなく、悟りを開いた人間一般を指す普通名詞で、ブッダは複数存在していた。ブッダの教えとされるものも、複数のブッダの教えが時を経て、一つのものへと整えられてきた可能性も否定できない。ブッダの生涯にしたって、出家、修行、成道、入滅と、それぞれが個別に説かれていて、初めから全部揃って説かれていたわけではない。そもそも「仏教」という言葉自体、近代になって初めて作られたものであって、はるか昔の人々が、現在でいう「仏教」という包括的・統一的な概念をもっていたわけではない・・・など。


この辺は、仏教学の研究成果によって明らかになったことから考えれば、別に驚くべきものでもないと思います。ブッダが実在しないというと、結構ショッキングな感じに聞こえますが、著者は別に仏教の存立を否定するのが狙いではないようです。もともと仏教自体が、ブッダの実在を聖典に基づいて論証しようとしてこなかったといいます。それよりもむしろ、新たな教典を次々と作り、多様な物語を生み出していった、その文学性に注目するなら、ブッダが実在したかどうかは重要なことではないともいいます。


最後に、仏教が究極の実在を前提とせず、そういう究極の実在を求めようとしていっても、最後には何もないところに行き着いてしまう。なにしろ、ブッダは実在しないからだ、というオチで締めくくられてます(笑)。

テクストを疑え!

出たばかりのこちらを早速購入。

テクストとは何か:編集文献学入門

テクストとは何か:編集文献学入門

副題として「編集文献学」という、ちょっと聞き慣れない言葉があります。編集文献学とは、もっぽら近現代のテクストが対象で、古典文献学としては「校訂」という方が馴染み深いですね。どちらも原語(ドイツ語)としてはeditionsphilologieのことだそうです。

古代・中世の写本テクストの場合と近現代のテクストの場合とでは、状況は大きく変わってきます。かたやオリジナルはすでに失われている、かたやオリジナルはいくつもある(印刷前の原稿、初版、改訂版・・・)。校訂というと、その先にある、著者自身によるオリジナルな決定版を確定するという、ある意味理想主義的なイメージにもなりますが、近現代のテクストが示しているように、そもそもその「オリジナル」とは一つだったのか?と本書は問いかけます。多様なテクストから唯一のオリジナル・テクストを復元するというのはそもそも意味があるのか?むしろテクストは最初から多様であり、可変的なものだったのではないか?近現代の編集文献学によって、そのような反省がなされたといわれています。

具体的に、第一章ではプラトンの著作集を例として、その校訂テクストの歴史と新しいテクストの提示までの過程が挙げられていて、参考になります。古典を読むとはどのようなものか?テクストはただ与えられたものを読むだけでなく、各読者がテクストを編集し、校訂し、テクストを疑い、底本とは異なる読み方を取るなど主体的に読むことが求められています。というか、そのような文献学的なスキルを身につけなければ、古典を読むということはできないのではないでしょうか。取り上げられてるのは、プラトン新約聖書ゲーテシェイクスピアカフカムージルなど、西洋の作品のみですが、もっと広く文献学をやろうとする人にとっての良い入門書だと思います。