古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

春期スクーリング3

仏教学研究1と2の最終日。2の方は一応、配布したプリント、つまり『唯識三十頌』はすべて終わる。唯識、とくにその認識論のメカニズムについては、受講者の人から質問が多く出てました。いろいろと面白い質問もあり、楽しめました。つづいて、三性説の説明。

そして、『唯識三十頌』が終わってから、『中辺分別論』の第一偈・二偈、「虚妄なる分別は存在する。そこに二つのものは存在しない。しかしそこに空性は存在する。その中にまた彼が存在する。それ故に、すべては空ではなく、空でなくもないと規定される。」云々についての説明も最後に。

講義の内容をごく簡単に要約してみます。

唯識という言葉の原語であるサンスクリットは、ヴィジュニャプティ・マートラです。ただ表象のみ、という意味で、アーラヤ識が映し出した表象のみということを意味します。それは『解深密経に』おいて、初めて用いられる言葉です。唯識思想においては、外界の存在物を一切認めません。外界にあたかも存在しているかのように見えるのは、アーラヤ識という潜在意識によって映し出された表象にすぎないのです。

その唯識思想とは、一切が空であるという中観思想に対する一種のアンチテーゼとして起こってきたものです。空ということは、もともと「AにおいてBがない」ということ、つまりAはBという点で空なんだということが本来の意味です。しかし、般若経をはじめとする中観思想では、すべてが空であり、空と主張すること自体も空であると主張します。それでは、なにもかもがなくなってしまうことになります。そこで、認識の根本にあるというアーラヤ識が設定されてくるわけです。アーラヤ識は、究極においては空ではあるけれども、縁起した存在として、存在が認められている。つまり、空ではないということです。

そのアーラヤ識には、習気あるいは種子というかたちで、行為(業)が蓄積されていきます。その過去の業である種子によって、表象が生まれてくるというわけです。

アーラヤ識はそうした種子から成り立つ一種の流れのようなもの、つまり川の流れに譬えられます。川の水が種子であり、その流れがアーラヤ識というわけです。流れそのもの(つまりアーラヤ識)を取り出すことはできませんが、水(つまり業という種子)がなくなれば、川の流れもなくなるように、アーラヤ識自体もなくなります。つまり、悟りを得ることによってアーラヤ識は消滅するわけです。そして、その実践方法について述べられてます。

唯識思想は、こういったアーラヤ識によって、日常的な迷いの世界を説明していることになります。それは仮に存在が認められたにすぎないけれども、それを拠り所として真理に到達せざると得ないという、一種の方便としても考えられるのだとも思います。

アーラヤ識には、輪廻、そしてその主体である霊魂を認めない仏教に対するインド伝統思想側からの揺り返し的な意味合いが感じられるとの見解も講義では述べられてました。唯識思想が起こってくるグプタ王朝時代は、社会の安定期・繁栄期であって、そういう時期には思弁的・哲学的な思想がおこりやすく、輪廻の主体とはなにか云々、といった抽象的な議論がなされたのでしょうし、そういった中で、アーラヤ識というものが生まれてきたのではないか、ということです。

講義では、そういった唯識思想の素朴な問題点、あるいは理論上の矛盾点についても若干ふれてました。例えば、アーラヤ識だけが存在するというのであれば、刀で身体を切りつけても大丈夫なのか、あるいはアーラヤ識が
認識を生むというのはいかにして、確認すればいいのか等々。あとは唯識二十論のなかの議論などについても。そして、研究対象としてのの面白さについても熱く語っておられました。

唯識はアビダルマという下敷きの上に構築された面がありますので、仏教学研究1のテキストでもある「存在の分析<アビダルマ>」を読むとよく理解できるように思え、先週一週間ノートをとりつつ、読んでおりました。

帰りの新幹線のなかでは、卒論のことをアレコレとボーっと考えてました。