大乗仏教周辺地域起源説

先日のスクーリングで取り上げられました『南海寄帰内法伝』ですが、その中に、7世紀に義浄が訪れたナーランダ寺に於いては、大乗と小乗は混ざり合って、両者の区別がないほどだという記述がありました。また、中国で大乗が広まっているのに対し、北インドはおおむね小乗が広まっていると言ってます。そして、大乗は独自の律を持たずに、既成の律に基いていたともあります。ということは、大乗を説いた人々は、別個の集団を形成せず、既成の部派教団の中にいたお坊さんだったことになりますね。

となると、全部読んだわけではないのですが、『大乗仏教興起時代』という本の中で、ショペン氏が言われた大乗仏教周辺地域起源説というのが思い出されます。つまり、4、5世紀までインドにおいては大乗仏教教団なるものは存在せず、既存の教団に属するマイナーな人たちによって作り出された、影響力のない少数派集団であった、という説です。5,6世紀になって、ようやく辺境の地方において、教団としての形をもったようですが、インドにおける主流派は、あくまでも既成の部派であったというものです。

また、ショペン氏は、インド仏教と中国仏教の平行的な歴史観という暗黙の前提に対して疑問を投げかけてます。つまり、「インドでの状況が中国において同種のことの起る前ぶれとなったわけではなく、同様に中国の状況もインドにかつて起ったことの再現ではあり得ない」ということ(「序章」p.9)。

その例として、『八千頌般若経』があげられてます。中国では、3、4世紀に重要な位置を占めた経典ですが、同じ時代のインドで用いられた形跡はあまり見つからず、もっと後代11世紀・12世紀になって流布した形跡がやっとみつかるというのです。

つまり、中国で大乗仏教が隆盛をみたからといって、それ以前に、インドでも同じような事態を想定することはできない。むしろ、インドでは、独自の組織を持つにはいたらず、持ったとしても辺境地帯での活動を余儀なくされ、「追い出された」というと言葉は悪いですが、新天地を求めて本国から外国へ出て行ったことになるらしいのです。

画像として挙げた『現代語訳 南海寄帰内法伝』(法蔵館)の末尾の解題の中でも、訳者の先生は、そのような大乗仏教のことを「律蔵を欠いた不完全な仏教、月足らずで生まれ成人式まで育つこととができなかった仏教、下半身は部派仏教のままで単に首から上だけの思想運動にすぎない」と述べられてます(p.432)。

サンスクリットチベット訳も未だ見付かってない『大乗起信論』(5・6世紀の成立)というのも、その撰述がインドにせよ、中国にせよ、読まれ、広まっていったのが中国だというのを考えると、やはり、上述のショペン氏の説は、興味深く思います。

大乗仏教興起時代 インドの僧院生活

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