古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

人生とは直線ではなく、あみだくじのようなもの

元日の東京新聞内田樹氏と鷲田清一氏の対談が載っていました。「幼児化ニッポン」というテーマです。その中でいくつか面白いことを仰ってました。
ネット上にはその記事が出ていないようですので、ここにも書かせてもらいます。

学校で、病院で、身勝手な主張を言い立てたクレーマーたち、公私の別をわきまえず、自己中心の言動を押し通して恥じなかった人たち。企業はモラル喪失の「偽装」に走り、政治家たちは「公約」を軽口であったかのようにうそぶいてみせた。私たちは、どうすれば成熟した「大人」になれるのだろう?

こういう未熟さというのは、自分は生産に関与しないという消費者社会の、ある意味宿命なんじゃないか、ということになるんですが、それは確かにそうだと思います。

一方でクレーマーがいれば、他方で自己責任で責める人がいるけど、これも同じようなもの。自己責任とか自立とかいう言葉が出てきてから、なんか居心地がわるいなあと・・・(笑)。集団生活ってインターディペンデント(相互依存的)にしかありえない。

若い人たちにそういう相互依存的な在り方が理解できないんじゃないか云々という件があるんですが、確かに自分もかつてそれに当てはまるようなことがありました。

「本当の自分らしさ」とか、「世の中に自分だけにしかできない唯一無二な仕事」とか、同じような恋愛の幻想(笑)、はたまた「唯一無二なオリジナルな人間としての生涯」・・・というような幻想にとらわれていた時期が。

その対談の中で内田氏はそういう若い人たちを「本当の自分らしさって何だろうと自問したまま凍りついている」と表現してますが、何かよく分かります。自分もそうでしたから。仏教もそうですが、若い頃とは違って、30代になって身にしみて分かることも多いですねぇ。

死ぬ間際にやっと、「オレの人生って何だったんだろう」って思うくらいなのにね(笑)。

昔の偉い人は何回も名前が変わった。失敗しても名前を変えるくらいの気持ちでいたらいい。人生を語るときは直線でなく、あみだくじで語れ。

結局、誰もが抱えているだろう幼児性ですが、それらと大人性とが緩やかに統一されていたはずが、どうやらそうでもなくなってきた、つまり日本の幼児化が顕著になってきたのが1970年代だというのにも興味がありますね。新霊性運動の時もそうでした。

それはともかく、「本当の自分らしさ」云々よりも、人生はあみだくじのようなものと気づくのは大切なことかと思うんですね。言ってみれば、それが成熟した大人なんでしょうから・・・。