仏典リテラシー

昨日でスクーリング前半が終了しました。講義の最後に試験が行われ、学部のときのように、終わってからのレポートというのではないので、その分楽かもしれませんね。

さて、今回の講義で強く思ったのは、仏教って、古くて新しい問題が結構あるんだな、というところでした。というか、考えようによってはそういうのばかりかもしれないですね。資料上の制約とかあって、新資料とかが出土しない限り、新しい説って中々出ないのかなという風に漠然と思ってましたが、あながちそうとばかりもいえないかな、と。要は、視点をどこに置くかで、読み方は180度変わってくるだろうと。そういう意味ではメディアリテラシーならぬ、仏典リテラシー(笑)というようなことの必要性を強く思った次第です。仏教って、結構自明となってるところは多いんですが、その自明性ってよく考えてみれば、結構あやしいところも多くあるようで、その辺が古くて新しいと申し上げた所以です。自明性をいったん括弧に入れて、判断停止(エポケー)してみるというのは、人文科学である以上基本なんでしょう…。

たとえば、「如来」というのが、スッタニパータの最古層の中に出てきます。一般的に、仏の十号の中に含まれているように、お釈迦様のことを意味しますが、tathāgataって、言語上、tathā-gataとtathā-āgata、「彼岸へ渡った」(如去)と「彼岸からやって来た」(如来)という二つの意味が取れ、そこから彼岸と此岸を(自由に)行き来するという意味になったようです。でも、これって完全に大乗仏教でして、ましてや「如来」と訳したのは、漢訳者が大乗を重視したからに他ならないことを表してます。ということは、スッタニパータだったら、「如来」ではく、「如去」だろうってことになりますよね…。

あと、「涅槃」というのも。従来は「吹き消すこと」「吹き消した状態」というのが元の意味だから、煩悩の火を吹き消した状態って、一般的に言われてましたけど、どうもそうではないらしい。これは、こちら(asin:4804305637)が参考になります。

このほかにも、講義中いろいろ興味深い話を聞きましたが、そういうのを聞けば聞くほど、修論に対する意識は高まったと思います。いずれにしても、仏典だって必ず伝達者という何らかのフィルターを通して語られた世界であることに間違いないわけですから、情報の受け手(つまり仏典研究者)は、そこに何らかの表現者の意図性を読み取らなければならないことは当然なわけです。しかし、こういうことを仏教の講義で聞いたのは初めてで、かなり刺激的でした。

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