唯心

先日、仕事場にある『華厳菩薩道の基礎的研究』という分厚い本の中から、「十地経における心識説の意義―ことに唯心をめぐって―」というところをコピーする。大変高価な本なんで、たまたま手元にある恵まれた状況のうちに、必要なところをコピーしてしまおうというわけです。ま、他にもコピーすべきところはあるんですが、一応“仕事中”ということなので、その辺に留めておく(笑)。

それを言うと、勝呂先生の『初期唯識思想の研究』もコピーしたいと思っていたのですが、生憎売れてしまい、図書館から借りなければなりませぬ。『華厳菩薩道…』並みの古書価で、古書流通の場でもなかなか入手は困難かと思います。


さて、以前唯心と唯識についての疑問をちょろっと書き*1、自らの無知さ加減を曝け出してしまったわけなんですが(笑)、そのことについて再度。


“唯心”という場合、そこに心の本性としての“光り輝く”心性清浄も含まれるようですが、“唯識”というと、“妄心”として心の解明に集中します。しかし、“光り輝く”心性本浄というのも、こういうのを読みますと、アートマンを否定した初期仏教には無かった概念のようで、明らかに大乗仏教になってから言い出されたもののようです。

とにかく、“唯心”という場合、“唯識”とは異なった、より広い意味を持つようですが、『楞伽経』というのは、“唯識”と説くべきところをあえて“唯心”と主張しているところがあります。そのあたりの『楞伽経』の唯心説について、所謂正統派の唯識派文献との比較を通して、成立年代史的な視点とも絡めて、修論を書いてみたいと思ってるところです。

*1:→[http://d.hatena.ne.jp/furuhon-ya/20080807#1218168361:title=唯心と唯識]