極微は影を持つのか?

大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)極微(paramānu)とは、物質の最小の単位で、最も(parama)微細なもの(anu)で、ギリシア語のa-tomに相当する概念です。見ることも触ることも、切ることも壊すこともできず、四角でもなければ円でもない最小単位。1つの極微の周りに6つの極微が集まって微塵になるというように、極微が結合・集合することで物質は成り立ちます。


『唯識二十論』の中で、世親は外界実在論を反駁するために、外界の物質の構成要素である極微が実在しないことを証明しようとしてます。その中で、そもそも、極微が結合して物質が成り立つこと自体が論理的におかしいと言っているところがあります。極微が結合するということは、それ以上分割できない極微の中に「部分」(上・下・左・右・天・地)があることになる。逆に、部分を持たない、つまり空間占拠をなさなければ、他の極微と同じ場所に重なり合ってしまう事態になり、結局ひとつの極微があるだけということになるというのです。


これに対し、外界実在論者(説一切有部)の反論は、極微は部分を持たず、それ自身は結合しないが、極微が集まった物質は部分を有し、ある場所を占有するのだ、というものですが、それに対し世親はちょっと面白いことを言ってます。物質が極微から成り立つとするなら、物質と極微は同じ性質を持たなければならない。物質は光が当たれば、その中のある部分には影ができる。それならば、極微にも光が当たれば影ができるだろう、と。それは部分を持つことと同じで、論理的におかしいだろう、と。何かツッコミの余地がある論証のような気もしますが、そういうことでいいのか(笑)?そもそも光を通す物質には、それを構成する極微は光を通し、影を持たないことになるぞ…!?


ま、そんなことは措いといて、世親にとっての極微とは、物質として顕現したものを分解していったときの極限に至ったものを、仮に名付けたものであって(仮有)、実在するものではないということなのでしょう。『唯識二十論』はアーラヤ識などの唯識の用語を用いずに、一般的な用語だけで唯識が成立することを対外的に示した小論ですが、サンスクリットの基礎文法を終えた読解の授業などで取り上げられることもあると聞きます。いずれ、きちんと梵文で読んでみたいですねぇ…。