他者の心は存在するのか?

大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)唯識といいますと、自らの心からすべてが現れるかのような印象があって、自分の心だけで話が完結してしまいがちですが、そもそも唯識的に他者の心はどう考えればいいのでしょうか?当然のことながら、他者(の心)が存在しないというのでは不合理な面がいろいろ出てきますので、世親は『唯識二十論』の中で他者の心の存在を認めています。


例えば、一本の木があるとします。唯識の話で、その前提として一本の木があるというのも変ですので(笑)、共相の種子によって各人に共通して一本の木が見えているという方が適切かもしれません。ともかく、その場合、例えば誰かがその木を切ったとしたら、切った人にはもちろん木が切られるのが見えます。他人にとってもやはり木が切られるのが見えるでしょう。しかし、木を切った当人以外の人にしてみれば、他人の心を認めないとすると、自分の心の表象に他人(の心に起因した)行為が現われることになり、ちょっとおかしなことになります。


そのへんは『唯識二十論』の中では、他の心が変化したものは、自分の心の変化に対し、増上縁としての影響力を持つというふうに説明されます。木を切った人の行為が結果的に他者の心に増上縁としての影響を与え、同様に木が無くなったことが見えるというわけです。唯識というと独我論のように考えられがちですが、一応、自-他の心が互いに増上縁の関係を持ちつつ、重々無尽な(!?)関係を持つということになるようです。


しかし、同じ『唯識二十論』の中で、世親は究極的には他人の心は存在しない、ということも述べています。いわゆる他心智(通)の問題ですが、他心智というのも、そもそも前提として他者の心が存在しなければならないわけで、そのことで他学派の人に論難されるのですが、それに対して世親は、他心智は分別智だと主張して、その論難をかわします。つまり、私と他の人の心という「自‐他」、「能取-所取」という図式で考えられた他人の心とは分別に他ならず、その点でブッダの究極の如実智よりも劣った分別智だというのです。とすれば、他人の心というのは世俗的存在としてあるのであって、勝義としては存在しないことになります…。