禅と唯識

禅と唯識―悟りの構造前回鈴木大拙に触れたこともあって、何となくこちらの本を引っ張り出してくる。同じ仏教とはいえ、中国的な禅とインドの唯識とでは正反対なところがあるようです。一方では頓悟を主張し、他方は三阿僧祇劫という無限な時間の中で修行して初めて悟りを得るという漸悟ですし、あるいは、一方は「不立文字・教外別伝」、他方は緻密な理論体系が構築されている点などはその最たるものでしょう。しかし、著者によれば、両者は瑜伽行として根本的にはひとつであるということになります。一方が体験を重視し直截的な表現を好むのに対し、他方は論理的・体系的な表現を好むというだけで、両者は相互補完的であるべきだというのです。


禅と唯識ということになりますと、『楞伽経』というのが重要な位置づけになってくるのかと思います。菩提達磨によってインドからもたらされ、二祖慧可に伝授される一方で、『成唯識論』では唯識の所依の経典に挙げられているからです。四世紀末にはインドで流布していたであろう同経は、世親が五世紀の人なら、その唯識説(あるいは如来蔵説?)にも何らかの影響を与えたであろうし、世親とどう関わるのか、気になる経典です。


『楞伽経』は、大拙に大乗の「雑記帳」と言われ、「自覚聖智」がその中心思想であって、禅宗と関係が深いのはその点だと言われてます。しかし、その中心思想は「五法・三性・八識・二無我」の唯識思想だとも考えられますので、解釈者の専門によって、中心思想が異なってくるような経典ということになるようです。それがまさに「雑記帳」たる所以なのでしょうが、個人的にはその成立史的なところに興味を持ち、そうした視点を持ちつつ、そこに説かれる唯心・唯識思想に焦点を絞って修論を書きたいと思っております…。


新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

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