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無常大鬼

聖なる幻獣 (集英社新書ヴィジュアル版)正月休みに読んだこちらの本。その表紙を飾るのはキールティムカと呼ばれる聖獣です。「キールティ」とはほまれを意味し、「ムカ」が顔を意味することから、「ほまれ高い顔」と訳されるそうです。あるいは、「キールティ」が「名称」、「ムカ」が「口」をも意味することから、「名称を生み出す口」、つまり創造主という解釈も成り立つらしい。インドではアジャンタ石窟の壁画に描かれてますし、日本の鳥居にも似たトーラナや鬼瓦にも登場します。威力または栄誉を誇示する役目を持っていて寺院や街角の祠などにその浮き彫りが飾られてます。インドだけでなく、ネパールやチベット、東南アジアにも伝播し、チベットでは六道輪廻図で、輪廻の輪を掴み、それを口に咥える絵柄も有名で、そこから観音菩薩との関係も出てきます。輪を口に咥える獅子という構図は、シリアにその起源があるそうですが、ギリシア神話とも関連があるようです。輪廻の輪を掴んでることから、中国・日本では無常大鬼とも称されるといいます。


f:id:furuhon-ya:20100107120117j:image:w200:right個人的に興味深いと思うのは、これらの聖獣がいつ頃から、仏教に組み入れられたかというところ。もともと釈尊の時代の仏教は、煩悩を滅して涅槃に達しようという、どちらかというと個人の内面の問題を主にしていたように思います。それが、次第に教団を組織して社会的な儀礼をやるようになった頃から、これらシンボリックな聖獣が用いられたと考えられるのでしょうか?


あと、もともと仏教は理性的であったとよく言われます。すべてのものには原因がある、論理と理性によって現実を見る、そうした智慧こそが仏教の本質と言われるからです。しかし、こうした聖獣というのは理性的な存在ではなく、また人間に恩恵のみを与えるような存在でもない、むしろ非合理的で畏怖されるような存在です。理性的な初期の仏から、幾本もの手足を持ち、恐ろしい姿となった、仏自身がいわば聖獣になったかのようなタントリックな仏教に変化していった時期と、これらが仏教に組み入れられた時期とは重なるのでしょうか?