三性説

科目最終試験もすべて出し終え、ほっと一息。そんな中、三性説についての勉強を再開。三性説というのは、今までいろいろな研究がなされ、百花繚乱な観がありますし、研究され尽くしたという観もなきにしもあらずです。文献によっていろいろなバリエーションで説かれているからなんだと思いますが、そこに統一的な見方をするとすれば、『瑜伽論』「菩薩地」や『解深密経』といった初期の実在論的で唯識説とは結びついていない三性説から、唯識の認識論的視点と結びついたものへと構造的に変化していったということなんだと思います。言語の所依であって言語表現できない事物*1がまずあって、それに対して仮設・増益されたもの(遍計所執性)は存在しない、そしてその事物が言語表現から離れるならば本性である円成実性が現れるというのが初期の三性説だったようです。これに対し、唯識に組み入れられたものは、依他起性を虚妄分別として、分別によって捉えられた対象(遍計所執性)は存在せず、勝義としては依他起性も存在しないというもの。


唯識と結びつく以前の三性説は、不可言説の事物が勝義として実在する(!)という外界実在説となっているのに対し、唯識と結びついたものは、依他起性を分別(識)として、勝義としては識も実在しないというのですが、前者から後者へどのように移っていったのか?それは、まさに唯識説の誕生とも重なり、興味深いところですが、そうした展開史を踏まえて修論にとりかかろうかというところです。したがいまして、まずは『菩薩地』あたりの初期の思想にあたり、足場を固めていこうかというところです。『菩薩地』といえば、ちょっと前になりますが、梵文の原典*2を安めに入手させてもらいました。山喜房さんから出た『梵文菩薩地経』というリプリントの古書価に比べますと格安なお値段で入手させてもらいました!!

*1:これは依他起性であり、不可言説の真如、円成実性でもあるという。

*2:U.Wogihara: Bodhisattvabhūmi, A Statement of Whole Course of the Bodhisattva, Tokyo, 1930-1936

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