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批判的精神

雑記

ちょっと間が空いてしまいました。別に、真面目に勉強しててブログどころではなかった、というわけではありません(笑)。


まず、仕事の方の話ですと、すでにご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、2ヶ月くらい前から、寺院・ご住職さん向けの某雑誌に、うちの店の古本買取広告を掲載しております。先日も「広告見ましたよ」というお客様もいらっしゃいました。その反響でいくつかのお寺さんからご蔵書の処分のお話をいただいておりまして、先週も能登半島の方に社長が買取に行ってきまして、先週からその本の整理をしてました。


勉強の方は、勝呂先生の『初期唯識思想の形成と展開』を再び熟読。最近考えている三性説では、「『瑜伽論』摂決択分における五事・三性説」(一)(二)が重要な論文。個人的には勉強になることばかり。唯識といいますと、大きな新刊書店に行けば、それについてのコーナーも設けられているほど、多くの書が出ています。ただ、個人的にそうした一般的な概説書に違和感を覚えるのは、唯識を“固定的に”捉えているということです。つまり、その多くは『成唯識論』などの法相宗的視点からの唯識理解が説明されています。当然のことですが、唯識もその思想史的な視点に立てば、その内容は結構“流動的な”もので、初期のものに比べると、『成唯識論』は大きく変化していることが分かります。そうした流れに触れることなく、例えば『成唯識論』に説かれる唯識説を、唯識一般の思想として紹介されるのにはちょっと違和感を覚えるわけです。勝呂先生の本を読むと、唯識の思想史的な流れが詳しく書かれてますので、参考になります。他では、前に触れたと思いますが、横山先生の『唯識の哲学』(平楽寺書店・サーラ叢書)がコンパクトな一冊としてお薦めだと思います。


そういえば、先日仕事で新入荷品を整理している時、『原典訳 チベットの死者の書 (こころの本)』の中に、山口瑞鳳先生による「『死者の書』は仏典ではない−チベットを誤り伝える虚偽」と題する毎日新聞の切抜き(1994年3月14日付)が挟まっているのを発見しました。私は、その記事、読んだことなかったのですが、雑誌・『諸君』の中でも同じような記事を書かれてるようですね*1。これは、NHKで放映された「チベット死者の書」などによる、安易なチベットブームに警笛をならす意図で書かれた記事かと思います。確かに、ニンマ派の「死者の書」が、「チベット死者の書」というタイトルをつけられ、あたかもチベット仏教を代表するかのような印象を与えてますが、実際のチベット人の間では意外と知られてないとも言われてます*2。その記事では辛辣なニンマ派批判ともいうべき主張が展開されているのですが、その辺の事情は、明治期に河口慧海が見抜いていて、彼によってすでに批判されているとしています。


その上で、

教養あるチベット人が冷ややかに見るこうした事情*3を全く知らないで『死者の書』の宗教的神聖を放送が追跡したのなら、ただ「チベット」を誤り伝えたばかりか、「仏典」の触れ込みで人々の死をかけた真剣な眼差しも欺いたことになろう。チベット語の読める専門家はこの事情に通じている筈だが、それでいて『死者の書』を推奨したのであれば、その信念に脱帽し、明治の探検家が持っていた批判的精神の欠如を嘆くしかないであろう。

と結んでおられます。


こういってはコジツケになりますが、上述の唯識にしてもチベット仏教にしても、要は概説書を鵜呑みにするのではなく、批判的精神を持ちつつ、原典(あるいはその翻訳)を読むべし、ということなんでしょう。それは、なにも仏教や宗教だけに限ったことではないんですが…。『楞伽経』のテキスト入力という地味な作業に明け暮れる日々の中、その辺のことをふと思った一週間でもありました…。

*1:山口瑞鳳中沢新一氏とNHKが持ち上げる「チベット死者の書」はエセ仏典」『諸君』26(6)、1994年、154〜161頁。

*2:平岡宏一訳『ゲルク派版死者の書』参照

*3:ツルティム・ケサン「書評『チベットの死者の書』」『仏教セミナー』51号を参照。山口氏によれば、同書は学会では紛れもない偽書として知られ、チベット人自身が仏典とは考えていないとしている。