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宮沢賢治

ちょっと忙し目でした。仕事の方ではなく(笑)、プライベートの方ですが。


さて、今月上旬の話ですが、古書市場に宮沢賢治の『注文の多い料理店』初版(大正13年刊)が出ていました。私なんぞ出る幕ではないのですが(笑)、一応見させていただく。さぞかし高くなったことでしょう。宮沢賢治というと、童話作家、詩人、そして農業指導家・教育者、はたまた法華経行者から菩薩道の実践者まで、色々な側面が注目され、研究書もかなりの数にのぼるかと思います。最近ではサラリーマンの顔もあったとか言われ*1、新たな側面にスポットが当てられてました。生前に自費出版の2冊だけしか刊行しなかったのを考えますと、ある種、異様ともいえる人気ぶりです。


宗教詩人 宮沢賢治―大乗仏教にもとづく世界観 (中公新書)賢治と仏教との関係については、以前こちらの本を読んだことがあります。中観仏教専門家による、大乗仏教教義から見た賢治作品の解説。特に、後半は仏教の修行道、あるいは地涌の菩薩、常不軽菩薩などの面から、「雨ニモマケズ」の世界観をとりあげています。地涌の菩薩については、この地上に生を享けている生きとし生ける者すべてが地涌の菩薩であり、実は皆んな過去世に釈尊によって教化され菩薩になっていると述べられているのが印象的です。


「デクノボー」と常不軽菩薩との関係については他の本でもよく言われてます。常不軽菩薩とは、サンスクリットではsadāparibhūta。これは、sadā(常に)と、paribhūta(軽んじられた、または軽んじた)、あるいはa-paribhūta(軽んじられなかった、または軽んじなかった)という4つの解釈の可能性を秘めた、非常にレトリックな複合語で、植木訳によると「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」(!!)という、何とも意味深な表現になります。


考えてみれば、法華経自体が詩的ヴィジョンやレトリックに富み、SFX的スペクタルを伴う、演劇的な展開に満ちた一種の文学作品*2ともいえるもので、インド本国ではもしかすると異端的な位置にあったかもしれませんが、中国や日本では諸経の王とまでいわれている経典です。賢治の作品も、そうした法華経に劣らずにレトリックな作品が多いですよね。だからこそ、その解釈をめぐってこれだけ多くの研究がなされるのでしょうけど…。


最近の本では、こちらも賢治と法華経の関係について分かりやすく書かれていると思います。

宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について

宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について

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*2:[asin:4166606565:image]