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西田幾多郎の生命哲学と唯識

西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書)今週はいろいろあって、週末から週明けにかけてちょっと忙しく動いておりました。そんな中、相変らず、何の脈略もない読書を続けております^^;最近は西田哲学について興味が湧き、いくつか入門書を読み漁ってました。その中で、以前買ったこちらの本を書棚の中に見つけ、読んでみたら結構面白かったです。西田については若い頃読んだ覚えがありますが、この本を読んでみると、そういうことだったのか…という新たな“気づき”もあり、改めて読みなおしてみたいと思うようになりました。


その“気づき”の一つ目は、唯識とかなりシンクロするという点です。主―客が未だ別れる前の直観であり、それのみが実在するとまで言われる純粋経験なんか、唯識とまったく同じことを言ってますし、世界が生成してくる“場所”というのも、アーラヤ識なんかのイメージにぴったりなように思えました。


現象学などでは、主体的な意識から出発して、そこから主客未分の領域を提示してくるように思えますが、唯識や西田の純粋経験によれば、初めから「私」とか「世界」とかが一体となった場面に投げ込まれていることが前提となっています。そこから、反省(あるいは分別)によって、「私」とか「世界」が限定、分離されていくのですが、そうした純粋経験を、“有機体的生命論”のヴァリアントと見るのが本書の特徴です。それが“気づき”の二点目でもあるわけですが。


生命とは、一面では物質から成り立っている機械である。だからそれは徹底して、物質的な機能に従属する。しかし、素朴に考えたところで、物質的な要素に還元するだけでは、生命という現象の特異性は説明されない。部分部分としての身体を形成する物質を繋ぎ合わせても、それは生きているものとはならない。それぞれの部分が、まさに有機的に連関しているシステムを形成してこそ、身体は生けるものとして成立するのである。

純粋経験は、どちらかというと、生命論における全体性の優位の点を説明しているように思いますが、後に、西田が行為的直観などを論じるようになると、個物の方に重点が移っていきます。そして、個物の中に全体性が入り込み、それを通して、個物が個物に働きかけ、その都度新たなものを生み出していくというような相互媒介的なことを述べるようになります。これはこれで、一即多、多即一のような世界観になりますが、それを生命論として捉えるのも興味深く思いました。


しかしこの世界のなかには、平板に並列する「個物」があるのみではない。この世界は、それ自身無限の連関であり、ひとつひとつの「個物」はそうした連関を表現している。そしてそうした無限の連関も、「個物」が「個物」に対することによって、つまりは「個物」が動きながら破断的に生成することにおいてしかとりだせない。

こうした「全体的一」と「個物的多」との「絶対矛盾的自己同一」を具体的に見てとることができるのは、まさに生命の世界においてではないか。


本書は、西田哲学の流れ、深化を俯瞰できる点でも分かりやすかったと思います。今後、西田の著作を腰を据えて読んでみたいと思わせる1冊でした。今は学術文庫版が入手可能のようです。


西田幾多郎の生命哲学 (講談社学術文庫)

西田幾多郎の生命哲学 (講談社学術文庫)