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ハイデッガーと仏教

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)先日来、こちらの本を読んでました。とても読みやすかった。

ハイデッガーの言う現存在あるいは存在というのは、この著者によれば、刹那滅の生死を繰り返す存在であり、その神秘を認識することこそが、本来的な時間を取り戻すことになるんだ、と。従来は、いつかは死ぬんだという、死の強迫観念的な意味で理解されてたような気がしたんで、そういうことだったのか!というのはありました。刹那滅的な意味で捉えるとなると、必然的に無常、無我という考えに近くなりますし、なんか仏教との関連性を思わずにはいられない感じではありました。

なににつけ、ぼくたちはすぐ固定した舞台にすがってしまう。確固として実体あるものを想定し、その総和や事後関係としてできあがる安定した絵柄のなかで、ものを考えてしまうくせがある。たとえば主客の二元論。まずは確固とした人間主体を設営し、それに対置するまるで静止画像のような世界を想いえがいてしまう。そしてそのあとで、ものごとを考えはじめるから、空間といえば、巨大なボックス状の三次元空間を想う。時間といえば、川の流れのような直線状の持続過程を考えてしまう。自己も、歴史も同様。すべてが、じつに静態的で固定した構図のもとで、考えられてしまうのである。

その硬化した思考舞台を溶解し、まずは「気づかい」という生の動態性へ還元し、次に刻一刻に変異する時へ、はては唯一一回的な生起(歴史)へと連行していくこと。しかも、ぼくたち読者自身のかじかんだ実存自体を流動化し、〈時を時として刻む〉よう仕立て直すことを通じて。それが、『存在と時間』という〈道〉が実践しようとしているトレーニング。そういっていいだろう。

そんなハイデッガーと仏教との関連性もあってか知りませんが、『大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)』の中で荒牧先生は、「衆生」について、「世界内存在」という訳し方をされてます(ちらほらその語は出てきます)。


その語を見るにつけ、ハイデッガーを連想せずには読めなくなってしまいます(苦笑)。確かに、ちょうどいい言葉・概念だとは思いますが、ハイデッガーから1,000年以上前の世親や安慧が「世界内存在」を知ってるはずもなく、どうなんだろう?と思ってしまいますよね(苦笑)。