古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

「有」か「存在」か

文庫化されたこちらを買って読みました。最近はあまり読んでなかった木田先生の本、ハイデッガー講義録の“拾い読み”とくれば、読まなきゃ!と思い購入。

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

ハイデッガー全集の翻訳の問題については有名な話。

「有と時」…「存在」と訳すべきところを“監修者”の方針で、「有」(う)とする。誰もがツッコミを入れたくなるところですが、ま、「存在」でいいんじゃないですか(笑)?監修者の意向でそのように訳語を指定される、木田先生は「文化的暴挙」とまでおっしゃってますが、そう言われても仕方がないですね。正法眼蔵の「有時」に引きつけて解釈しているらしいのですが、もっと単純に「有」というと、三界を輪廻する存在のようにも受け取られかねないですし、ま、いろいろ問題はあると思います。私は、仏典の読解で「有」と訳すべきところを「存在」と訳して、先生から訂正されたことがあります(苦笑)。仏教の文脈では、「有」の方がしっくりくるわけですね。

仏教でいうと、前にも触れたことありますが、世親の著作の翻訳で「世界内存在」という語が使われていたりする。ハイデッガーを仏教流に解釈する人、あるいは仏教をハイデッガー流に解釈する人、いろいろですね。

原文を正確に訳す。それが研究のスタートライン。しかし、このようなことを考えますと、スタートラインに立つというのも、なかなかどうして難しい作業です。私も日々それを痛感してます。

はやく、もっと自信を持ってスタートラインに立ちたいですね(苦笑)。