澄む月のひかりに

f:id:furuhon-ya:20131201094709j:plain:right:w180先日、たまたま入手しましたこちらの本。毎田周一の『澄む月のひかりに』ですが、読み始めてみると思わず引き込まれていってしまいました。調べてみますと、毎田周一は暁烏敏に師事し、京都大学哲学科で西田幾多郎の教えを受け、卒業後は金沢で教員を務めていたそうですが、戦後、職も家庭も捨てて出家し、長野の方で弟子たちに支えられつつ自給自足の生活をされていたとか。そういうのもあってか、仏教関係者を除きますと、一般的にはほとんど知られていない無名に近い仏教者だと思います。本としてはいくつか出してまして、死後毎田周一全集というのも出てます。今では、中山書房さんから文庫本の選集も出ています。

『澄む月のひかりに』はスッタニパータの翻訳(抄訳)になってまして、それに解説が付いている体裁です。ところが、その解説というのがかなり独特でして、「平常底の仏法」という表題がついてます。どこか西田を思わせるのはさておき、そこに哲学と倫理、そして宗教というのをとことん考えぬいた哲学者の軌跡を見ることができるような気がしました。

のっけから、人間存在は無意味である、本来無意味であるところに、意味づけをしようとするからそこに、「当為」(倫理道徳)が生まれる。でも、その必然性というのは全くなく、そのような「当為」は捨ててしまったほうがいい。それによって「迷い」というのがなくなり、真理の立場に立つことができるのだ、という一節で始まるのですが、何気なくそこを読んでその極端ともとれる倫理否定論に驚きつつ、一気に読んでしまいました。

掘り出し物を見つけた感じですが、親鸞や道元、そして西田哲学をも取り入れたユニークな仏教哲学者の思索の跡をこれからもっと追ってみたいと思います。というわけで、文庫本の選集でまずは読んでみましょう。

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