読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日本語で哲学する

以前から継続して読んでいたこちらの本、やっと読み終わりました。


和辻の著作は様々な領域にまたがってますが、初期から後期への思想的発展にひとつの軸を見出そうと試みています。人格主義の影響下にあった初期から、仏教研究に取りかかるのと並行して、その思想に変容が見られ、そこにハイデッガーなどの影響を受けつつ、後期の「間柄」へと繋がっていくのですが、とりわけ仏教研究を彼の思想発展の中に位置づけてるのが興味深い点だと思いました。その際、著者が注目していたのが「もの」と「こと」という、表現上のことばの問題です。表現される「もの」と表現された「こと」、本来不可分のはずの両者を「引きはがす」、そこに思想展開の鍵があるとみているようです。


和辻といえば、日本語で哲学することにこだわり、「日本語と哲学の問題」という注目すべき論文を書いていることはよく知られています。存在の問いを「存在」という漢語を用いずに、「あるということはどういうことであるか?」と言い換え、その問いは、なぜ、「あるというものは…」といえないのか?「もの」と「こと」はどう違うのか?我々が普段日常生活を送っている時に何気なく用いている言語には、反省以前の自己理解、存在理解が含まれている。こうした言語を掘り下げていき、普段あまりにも当たり前に用いられていて、改めて意味を問われても困ってしまうような日常語で哲学を試みたらどうなるのか?極めて面白い試みをやっていたのでした。


その辺はこちらが面白いです。特に前半部は、和辻が試みた、日常語でデカルトの「Cogito ergo sum」を翻訳するのですが、そこから生じてくる誤差、矛盾が西洋哲学のもつ問題点を浮き彫りにしていくのがはっきりと分かります。


日本語の哲学へ (ちくま新書)

日本語の哲学へ (ちくま新書)


もともと、和辻に興味を持ったのは、末木先生が高く評価してて、その哲学の出発点にしていたのをみて以来です。哲学者・和辻の主著である『倫理学』では、人間を孤立した個人として捉えるのではなく、もともと社会性を含み持った「間柄」として捉えています。それは「人間(じんかん)」「世間」という、いずれも元は仏教用語である日本語本来の語義に立ち返り、そこから改めて西洋哲学を読み直すことで、その問題をあぶり出すという形を取っていて、その結果が西洋哲学に対する強烈な批判になっています。

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

「我れのみが確実である」と書くのはそれ自身矛盾である。書くのは言葉の文字的表現であり、言葉はただともに生き、ともに語る相手を待ってのみ発達してきたものだからである。たとい言葉が独語として語られ、何人にも読ませない文章として書かれるとしても、それはただ語る相手の欠如態に過ぎないのであって、言葉が本来語る相手なしに成立したことを示すのではない。そうしてみれば、書物を読み文章を書くということはすでに他人と相語っていることなのである。いかに我の意識を問題にしても、問題にすること自体がすでに我の意識を超えて他者と連関していることを意味する。

一方の言語(あるいは文化)から他方の言語へ翻訳する場合、一方の言語では問題にならなかった点が、他方の言語で逆に問題となる、そのような言語と思考形式の相違というのも興味深いと思いますが、仏教も含めて日本語に含まれている歴史的背景、文化を顧みつつ、西洋哲学と対峙した、和辻の姿勢は実に面白い方法だと思ってます。中村先生は、和辻を比較思想の先駆者の一人に位置づけてましたが*1、まさにそんな感じがします。

和辻先生は決して西洋の哲学思想の単なる翻訳者や紹介者ではなかった。血肉の中に生きている東洋の伝統が体系の中心的な位置をしめていた。しかし教義やドグマを後生大事にまもっているようなものではなかった。人間の現実に即して考えようとする強靭な思索の立場―それが東洋の思想をこのようなかたちで生かしたのであった。これは未来の学徒に向って示唆するところの大きい先達の行跡である。


「血肉の中に生きている」というのがいいですね。

*1:比較思想の先駆者たち―地球志向に生きた二十一人 (1982年)