古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

卒論・草稿

まだ完成というわけではないので、ここに書くのはちょっと先走り気味ではありますが・・・。

一応、だいたい書き終えました。字数にして約2万字程度。細かいところをまだまだ修正しなきゃいけないんですが、微調整をちょっとしてから、来週あたりに提出する予定です。このVersion1を提出した後に、先生から修正点等のコメントが添えられて戻ってくるはず。それを修正して、再度提出して・・・と、そんな過程を繰り返し、11月30日までに清書許可を得られれば、3月卒業ということになります。


さて、卒論で取り上げた、真諦三蔵の唯識説について、他訳と比較しながら読んでると、識が塵(対象物)に似て現れ、それが縁となって、認識する主体が起るという表現がよく出てきます。眼・耳・鼻・舌・身という感覚をつかさどる器官に、対象物がまず現れる(それも業の結果ということなんですけど)。眼で見て、耳で聞いて、匂いを嗅ぐ、あるいは手で触る、そうして現れた相貌は、感覚器官と対応した眼識・耳識等が、変異したものです。で、その相貌を第六識の意識が、分別・判断をするというのです。そうやって、「世界」に対する「私」というのが起るといいます。

まあ、通常の感覚でいきますと、「私」があって、そして「世界」があるという感じでしょうが、この唯識説の場合は、逆になってまして、まず識が変化して相貌として現れる。その顕れた相貌(だけ)があるのだといいます。そうした相貌を起す識(眼・耳・鼻・舌・身識)は、おおもとの阿梨耶識(阿頼耶識)から、転変して起こってきたもので、真諦の場合は、これら諸識が一体となっていて、縁起した存在として、仮に「有る」ということが認められてるのです。唯識の場合は、識だけが縁起した存在として認められてます。

感覚器官が捉えた相貌を分別するのが意識で、意識が、本来は識が変化して生じた相貌にすぎないものを、外界にあると分別・判断していくことになります。その相貌は、ただ名前だけで、本当は外界に存在しないのに、そこにあると認識するわけです。ですから、識は、煩悩の体(虚妄分別)といわれます。

そう、今、目の前にあって、手で触って、叩いてみて、確かに触感があって、どう考えてもあるとしか思えない、この机も、ただ、そうした視覚、触覚・・・という感覚(と結びついた名前)だけがあって、外界に「机」なるものが存在しているのではないということなんですね。

真諦にあっては、対象が無いなら、それを認識する識も無いという境無識無説ということをいいます。これは『成唯識論』の境無識有説とは違うようです。対象も識も無となったとき、実性(阿摩羅識という自性清浄心)が実現されるわけです。