古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

自灯明・法灯明

これもスクーリングで仕入れたネタ(笑)。大般涅槃経の自灯明・法灯明について。

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

誰でも自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島として、法をよりどころとして他のものをよりどころとしない…(岩波文庫64頁)

その有名な言葉の中の「よりどころ」について、果たしてそれは「島」なのか、「灯明」なのかという話題。もとの言葉dīpa(梵dvīpa)を「島」と訳すのか、それとも「灯明」と訳すのかという問題なんですが、中村先生訳は「島」ですし、その注を見ますとチベット訳もブッダゴーサも「島」と訳しているとのこと。一方漢訳の『中阿含』では「灯明」となってるという問題ですね。たしかに、dīpaを辞典で引いてみますと、islandsとかshelter, salvation などの意味がある一方で、lamp--tree, the stand of a lamp, candlestickというのもあります。

私はその辺専門に勉強したのでもなければ、知識もないので詳しくはよく分からないのですが、例えば、地獄に焦熱地獄と極寒地獄があるように、自らの「よりどころ」を「島」とするのか、「灯明」とするのか、それについても地域的な解釈の違いもあるのでは?という話なんです。カシミール地方とかの寒冷地に伝わった仏教の「地獄」が、決して「焦熱地獄」を意味せず、「極寒地獄」であるように、dīpaの解釈にも地域的相違があるのでは?と。

つまり、北伝の方は、仏典をインドから中央アジアを通って中国に運ぶのに広大な砂漠を通ることになりますが、その砂漠における「よりどころ」というのはやはり「灯明」なんじゃないかというのですね。砂漠のような360度何もないところでの拠り所としてはやはり「灯明」なのか…。一方の南方は、大海はもちろん大河川もありますし、そういうところでの拠り所とは、「島」になるのか…?と。

それを聞いて、何か出来すぎた話のようにも聞えましたが(笑)、なるほど…と思ったのでした。仏教の地域的な解釈の相違というのは間違いなくあるのだろうと思います。この自灯明・法灯明の話もそういうのでしたら、非常に面白い話です。