古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

ダライ・ラマの中論講義

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章連日、いかんいかんと思いつつも夜中にサッカーを観てしまう日々で、ブログの更新も儘ならず…(苦笑)。そんな中、中間発表の配布資料の作成は何とか終わらせました。あとは時間内に発表をまとめるということへの準備でしょうか…。


さて、ちょっと前に買ったこちらの本を少し読んでみました。すでにネット上には書評があがってまして(参照)、何となく気になっていたので。私はゲルク派の空・理解の特徴については、立川武蔵『空の思想史 (講談社学術文庫)』などを読んだ程度でほとんど分かりませんが、空といっても何もないということではない、むしろ「空である」と言われたならば何かがあるんだ!と言われると、確かに一瞬戸惑われる向きもあるかもしれませんね。


よく考えてみるならば、「空である」と言われた時には、「あるのだ」と理解しなければなりません。何故ならば、「空である」とは、「その自性が空である」という意味なのであり、「自性が空である」とは、何かがあって、その自性が空なのだということを意味しているからです。何もないものの自性が空であると言うことはできません。ですから、「空である」と言われたなら、「何かが存在する」と理解するべきなのです。

私たちが「ものの本質は空である」と言う時も、これ、あれ、などと私たちが指をさして示すことのできる対象物は、常にそこに存在しています。これはよいものだ、悪いものだ、これは柱だ、これは色だ、というように、指をさせる対象物がそこに確かに存在しています。しかし、そのように指をさせる対象物自体が成立していない、と言うならば、いったい何を指させばよいのでしょうか。


前掲・立川著によれば、こういうのは、いわゆるゲルク派の空・理解ということになるようです。そもそも、空とは「xはyという点で空だ」ということですが、そのyが自性ということで、「xは自性を欠いている」、そして究極的にはxもyも存在しないということ。でも、ツォンカパによれば、xは自性として成立していることを欠いている、つまり、自性として成立してない限りのxは存在するということになる、と。空というと、全ての存在を認めないのが究極な立場。空性に至った後によみがえるとしても、基体も属性も存在しない。でも、そのゲルク派理解によれば、自性として成立していない基体は存在が許されているんだとか…。