本当に価値のあるものは効率の悪い行為を通してしか獲得できない

年の瀬も押し迫ってきました。昨日届けられた『佛大通信』(2008年1月号)に村上春樹の『走ることについて語るとき僕の語ること』の中の文章が載ってました。というわけで、久しぶりに村上作品の話題。

僕らは初秋の日曜日のささやかなレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て―あるいはずっと高いところから見下ろして―たいして意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、ぼくらにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして、本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。(232頁)

これは私もいい言葉だと思います。所詮、私が行ってることの八割、九割方は、考えようによっては「底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるような」ことかもしれませんので(笑)、そういう意味では励まされます。


走ることについて語るときに僕の語ること