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逆輸入された「仏教」

仏教の形成と展開 (新アジア仏教史02インド?)こちらも買ってしまいました。いずれにしても、このシリーズ、やはりそろえる必要があるかもしれないですね。初めに、この巻の大乗仏教の起源の箇所を読み、続いては第一章「近代仏教学の形成と展開」も読んでみました。それを読みますと、仏教とは何かという問いそのものが、近代西洋という、仏教とは何の関係も無い世界で形成された仏教学というガクモンの上に成り立っているものであることがよく理解できます。


現在、我々は、仏教とは、シャーキャム二・ブッダによって開かれ、同一の起源から、世界のさまざまな仏教が展開していったと理解していると思います。しかし、よくよく考えますと、こういう見方そのものは、近代の仏教学という学問的操作によって構築されたに観念に過ぎません。そういう仏教認識が、仏教が事実として現存しているアジア各国に逆輸入され、そこに住む人々の仏教理解に少なからぬ影響を与えているというのは、ある種奇妙なことだと思います。


実際、そういう観念としての仏教認識があると、そもそもゴータマ・ブッダの仏教というのが純正なるもの、本来的なものとしてあり、その後に展開した(とされる)仏教(大乗もそうですし、密教もそうです)は、いわば、ブッダ以後にブッダの与り知らないところで、変容されたもので、本来の仏教とは異なる、いわば堕落したものとして見られかねないからです。その典型が日本の仏教ではないでしょうか。日本仏教といえば、よく本来の仏教ではないかのようなことが言われますが、個人的に、そういうのを聞くたびに辟易してしまうのは、そもそも本来の仏教とかいうこと自体に、どこか違和感があるからです。現存しているのは、事実としての仏教だけであって、それを信仰している人、儀礼、仏像などの物象のみで、それらは別に劣ったものでも何でもないからです。


「仏教」なる言葉自体は、たかだか1820年頃に西洋で生まれたもので、アジア仏教圏で生きる仏教徒たちが伝統的な世界観の中から生み出してきたものではありません。シャキャムニ・ブッダというのも、歴史上存在したであろうとされる、観念上の存在であって、西洋人が己を見る「鏡」ともいえるような存在であったというのは、覚えていていいと思います(参照)。


仏教と西洋の出会い

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虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか

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