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偈頌と長行

研究・レポート

先週くらいから修論についての勉強で唯識の参考書を再読しつつ、『楞伽経』を偈頌品の方から、とりあえずはテキストの入力作業をしてました。計画書を出す段階ですでに入力してはいたのですが、まだまだ下準備をこなさねばならないといったところです。『楞伽経』は、散文の各品の末尾に、重頌として、本文の内容をまとめるような、あるいは、本文内容と関係するような偈が添えられる形式をとっています。成立史的なところについて書こうとしてますので、そうした偈が先に成立したのか、あるいは散文部分が先に成立したのか、双方の内容を検証しなくてはならないところがあります。一般論として、偈が先に成立してから、散文が加わるという形が多いようですが、同時成立ということもありますし、後代に加えられた可能性も捨てきれませんので。


当然のことですが、偈には韻律があって、そうした制約下において作成されますから、どうしても簡略化せざるを得ない部分があり、プリミティブな内容に見えなくもないというのがあります。それに比べますと、当然、散文は詳解に説明がなされるわけで、偈から散文へと発展していったかのように見えるわけです。例えば、『楞伽経』の韻文の方には「アーラヤ識」というより、単に「アーラヤ」という語が出てきます。これなども、「アーラヤ識」という教理がまだ整う前の段階と見ることもできなくはないのですが、「貯蔵庫」「住居」という意味の「アーラヤ」を一般名詞として使ってると見ることもできるわけでして、その辺はどうなんだろう…と悩ましいところではあります。