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唯識と止観

ちょっと前に止観、ヴィパッサナー瞑想の流行などについてちょっと触れました。その時のリンク先の記述にもありましたが、仏教では止(サマタ)も観(ヴィパッサナー)も共に行わなければならない、と随所に言われます。唯識文献でもそれは同じことで、止と観を繰り返し行うべきことが言われてますが、興味深いのは、最初期(『瑜伽論』『声聞地』)の段階では外界に存在するものを所縁として止と観を繰り返すという点です。つまり、この段階ではまだ唯識無境が前提とはなっていないということ。ヨーガとは“繋ぐ”というのが元々の意味だそうですが、心を集中して一つの事物に結びつける、ということです。で、その次の段階としては、その対象に類似した影像を心に作り出し、その影像を所縁として止と観を繰り返すべきことが言われます。そして、影像に対し心を固定することを繰り返し修習した結果、その影像を超えて、事物そのものの真の姿を現証することができるのだと言われるのです。


唯識思想が体系化されてからは、真如というのは、事物そのもののというより、無相というふうに言われます。心しか存在するものはなく、その心に何も顕現しないこと。真如を見る無分別智というのも、無相を見る智だというふうに定義され、対象物を見る智慧は後得智として別出されるようです。無相を見るなどという抽象的な言い方よりも、事物そのものを認識する智といった方がしっくり来る気がするんですが…。


ともかく、止観という三昧体験の中から、唯識思想は生まれるのですが、はじめは所縁としてのものと、それを前提とする影像があったのですが、次第に事物の前提にせずに影像が説かれ、更には止観、三昧を前提とせずに、日常的な認識においても一切は心が作り出したものにすぎないと主張するようになります。唯識思想というと単純に唯心論哲学と考えられがちですが、止観という行に焦点を当てると、きわめて高度な禅定体験を前提とした哲学であることが分かりますね。