古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

世親と楞伽経

10月末に修論・草稿を提出いたしました。すでに何度か触れましたが、一応、大雑把に言いますと、テーマは楞伽経で、それを初期唯識思想史上に位置づけてみようという狙いです。そういうことになりますと、どうしても世親との関係に触れないわけにはいかないのですが、そこには色々と複雑に絡み合った問題があるようです。


まず、世親の『釈軌論』に『楞伽経』の偈が引用されていることから、「偈頌品」は世親以前に成立していた可能性が高いということが一ついえます。しかし、その「偈頌品」の中には、無著・世親によって完成されたといわれる八識説と識転変説が説かれているところが少しあるのです。ということは、『楞伽経』が八識説と識転変を初めて説いたのか、はたまた、世親以後にその部分が付加されたのか、ということになってきます。そこが、まず分からないところの1点目。


次に、「偈頌品」よりも後代に成立したとされる散文部分に、『唯識三十頌』の偈と同じものが、世尊が言われたこととして引用されています。先行研究によれば、その部分は『三十頌』から『楞伽経』が引用した可能性が高いとされ、散文部分は世親以後に成立したようです。しかし、その引用部分は世親や無著という唯識思想とはある意味矛盾した、どちらかというと『菩薩地』などと関連が窺える内容となっています。ということは、一概に散文部分が世親以後に成立したとは言えなくなるというのが、分からない点の2つ目。むしろ、無著・世親ほどに、唯識説は体系化されてはおらず、もう少し前の段階のような気がするんですね。


このように、先行研究によって明らかになった様々な点を前提にしていきますと、矛盾が生じてしまいます。ということは、それら前提のどこかに間違いがあることは明白です。あるいは、ただ単に私の読み方が間違っているだけかもしれませんが…(笑)。ともかく、そういった状況にどのような合理的説明を与えることができるのか?そして、その間違いはどこにあるのか?色々と証拠を挙げつつ考えを巡らしていく様は、犯人は誰か?それを追い詰めていくミステリさながらの面白さがあります。


今月の13日には中間発表会で京都の本学に行きます。そのついでに、その辺の疑問点を先生に質問してみたいと思ってます。