古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

レポート提出

今日、大乗仏教思想のレポートを提出できました。これで、今月は、科目最終試験が2度あることになります。7日と21日です。先月から月1科目ペースでレポートをだせてますので、この調子で早くテキスト履修を終わらせてしまおうと思います。2年で終わらせるべきところを、一応3年計画で卒業しようと思ってますので、2年間でテキスト履修とスクーリングを全て終わらせて、最後の1年は卒論に集中しようかと今のところ考えてます。とりあえず卒論の方は、指導教員の先生が決まり、今のところは、計画書(指導用)を提出し、3月までに正式な計画書を出す、という状況です。だいたいテーマの方は、決まりつつあります。

今回提出したレポートの課題の中のひとつに、唯識の修道論というのがありました。唯識というのは、外界に存在するかのように見えるものも、実は心が映し出したものに他ならず、心(識)以外の存在を認めません。確かに人間の認識のメカニズムは視覚や触覚、嗅覚などで捉えた信号を脳が解読してひとつのイメージなり、感覚なり、においなどがなりたってくるという点で、本質をついている理論だと思います。ただ、修道論という体系の中にそういう高度な理論が位置づけられているという点で、感心してしまいます。つまり、唯識に悟入する前に、慈悲の心を持ち、善行を行い、またその自らの功徳を他の人へ廻向していくことが前提になっています。そのうえで、全ては心が映し出した映像(影像)なのだという境地に至るというわけです。

そして、前回にも書きましたが、修道論の全体が三阿僧祇劫という膨大な時間をかけて行なうものということになってます。阿僧祇といいますのは、無限ということですが、さらにその3倍という天文学的な数字になってしまいます。無限を3倍する、っていうのも変ですが。。。これも数学に強いインド人ならではだなぁという気がします。要は、輪廻を繰り返し、ひたすら修行するという意味でしょうが、中国とか日本になると、やはり国民性なんでしょうか、すぐに成仏できるようになってしまいますよねぇ。きっとそこまで待ってられないんでしょうねぇ。