漢文と東アジア
相変わらず残暑厳しい日が続きます。今日、書店に寄ったついでにこちらの本を見かけ、購入してしまいました。
- 作者: 金文京
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/08/21
- メディア: 新書
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漢文訓読というと日本独自に生み出されたもののように思ってましたが、朝鮮、ウイグル、契丹など東アジア各地でも同様なことが行われていたといいます。そればかりか、日本で行われている訓読は、そもそも朝鮮半島で古くから行われていたのが入ってきた可能性もあるというんですね。というか、漢文に触れる機会がある東アジア文化圏においては、どこでも訓読が起こりうると著者はいいます。そして、そこには仏典の漢訳というのも重要な問題となっているようです…。
もともと、仏教には、仏陀はすべての言語で説法するという思想があって、翻訳に対して寛容であったというのがあります。それはアラビア語のコーラン、ラテン語の聖書が正統とされていたのとは全く異なるもので、その辺に梵語も漢訳仏典も共に同価値であるとみなされる下地があるといえます。同時にそれは、漢訳仏典の相対化も引き起こすわけで、漢文が絶対的なものではなく、自国の言語に訓読することが可能であるばかりか、日本神代の言葉が梵語と同じであったという梵和同一説や本地垂迹説をも引き起こし、インドの権威を借りて中国に対抗し、単なる翻訳ではなく、漢文と対等な日本語という意識をも芽生えさせたといいます。梵和同一説や本地垂迹説が盛んになる平安中期以降は、漢文訓読は仏典から中国典籍全般にわたるようになり、単なる漢文読解の補助としてだけでなく、日本語の独自の文体となっていくわけです。
漢文の訓読の思想的背景に、漢訳仏典と仏教の翻訳に対する寛容性があったという説には、へぇーと思った次第です。