古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

現代語訳のこととか

f:id:furuhon-ya:20101003055934j:image:w150:right最近、こちらを読んでました。読むというよりは、必要な箇所を和訳するという作業だったのですが。同書の和訳というのは、宇井先生のものが一応あります。「一応」というのは、それなりのワケがありまして、つまり、漢訳の仏教用語がそのまま使用され、普通の現代語訳にはなっていないからです。あとは、他の研究書で部分的に現代語訳されているのは結構あります。


宇井先生訳の一例をあげますと、こんな具合です。

菩薩は智慧と功徳との無邊涯の資糧を聚めて、諸法に対する思惟の善決択の故に、意言に随順する義趣を了達する。(p.108)


これは、第6章の、いわゆる入無相方便を説く偈の部分なんですが、日本語としてちょっとキビシイ感はありますよね。いや、正直に言わせてもらえば、普通の意味での日本語になってません。「義趣を了達する」とか「善決択」というのは、仏教的文脈では許されるのかもしれませんが、自然な日本語という点ではちょっと・・・と思うわけです。指導教員の先生からは、広辞苑に載っているレベルの日本語で訳せと何度か言われたことがあります。上のような和訳を見ると、さもありなん…でしょうが、一方で、ごく普通の日本語で訳すことは、今までの伝統的な読み方を無視するわけで、反って原語が何かよく分からず、混乱をきたすということにもなりかねません。


ちなみに、上の宇井先生訳の同じところを兵藤先生の訳ではこうなってます。

菩薩は智慧と福徳の無辺の究極の資糧を積み、法に対して思いがよく決択することから、対象の姿形は意言に随順すると了解する。


ここでは先の「義趣」(arthagati)が「対象の姿形」という現代語に訳され、その点では明快な訳だと思いますが、「決択」、「意言」あるいは、「随順」などの仏教語はそのまま使われてます。なぜ、arthagatiのみ現代語訳され、それ以外はそうではないのかというのはちょっと分かりませんが、仏教の場合、現代語訳というのは、専門用語である漢訳語の“呪縛”がある故に何とも難しいところなんですね。他の先生の和訳も参考にしてみたいとも思いますが、そんな風にしていると時間ばかりが過ぎ去って、結局一日一偈も訳せなかったということにもなりかねず、そのまま仏教用語を使ってしまえ・・・ということになってしまうわけです(苦笑)。


カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)ジャンルは違いますが、こちらは画期的新訳ということで、非常に読みやすくなってます。先週関西方面に仕事で行ったのですが、往復の新幹線中で1冊読みとおせました。通勤車内で読むと、気が付いたら、降りる駅を通り過ぎていた!!なんてことが何度かある程に夢中に読めてしまうもので、新訳の読みやすさに感動してます。古典というのは、やはり何度も何度も新たに訳されるべきで、その時代にあった言葉で提示されるべきだと思いますが、それは仏教(学)についても同じことだと思います・・・。