古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

神々の闘争 折口信夫論

ひと段落ついたので、息抜きの読書。

神々の闘争 折口信夫論

神々の闘争 折口信夫論

言語情調論 (中公文庫)

言語情調論 (中公文庫)


安藤礼二さんの本は、これまでにも読んできましたが、こちらを再読。個人的に、この本によって、私は折口信夫に出逢い、衝撃を受けました。安藤さんによれば、折口のこの『言語情調論』には、後に展開するあらゆるテーマが濃縮されているという。それは、象徴としての言葉、直接性としての言葉、「純粋言語」とはいかなるものか、というもの。


本書の功績の第一として、そうした折口の出発点が同時代の思想運動から決して孤立したものではなく、エルンスト・マッハからフッサール現象学ロシア・フォルマリズム、ジェイムス、ベルクソン西田幾多郎・・・これら世界の思想と密接に連動しているのを明らかにしたことでしょう。そして、折口と昭和の超国家主義アジア主義、それに連なるイスラームとの関係、そこから井筒俊彦への影響にまで言及しているのが第二の功績で、その辺は正直いって驚きをもって読みました。とりわけ、イスラーム神学における神と預言者の関係と、折口の描き出した神(ミコト)とミコトモチとしての天皇の関係との近似性にまつわる部分。両者の合致は単なる偶然というわけでもなく、藤無染を介して影響を受けたキリスト教の異端ネストリウス派イスラームの母胎ともいわれるらしい)の存在が浮かび上がってくるわけですが。



息抜きついでにこちらも購入しました。発売されてから、1年半。ようやく手にしましたが、入手するまでにそれだけの時間を要したのは、これだけの大著を読みきれるか?自信がなかったからなんですが、これからゆっくりと時間をかけて読むことといたしましょう。


折口信夫

折口信夫

本書の帯には、若松英輔氏をはじめとする方々の推薦文がありますが、以下の文章は私の実感と一致します。

折口信夫の名前はよく知られている。しかし、この人物の生涯に何が潜んでいるのかを私たちは、安藤礼二の登場まで、ほとんど何も知らなかったのである。(若松英輔

安藤礼二は思想史という時空間に、壮大な曼荼羅を描く人である。過去の思想家たちが時空を超えて有機的に結びつき、一つの宇宙を構成する。(中島岳志

安藤氏のすごいところは、その文献渉猟的なところにあるといって異論はないと思いますが、ご自身が冒頭の書「あとがき」で述べられているところでもありますが、著作自体が書物論として構成されているところだと思います。本を読むとはどういうことなのか?

折口がさまざまな書物から繊細な手つきで紡ぎ出し、一つの美しい体系へとまとめ上げた音楽を、できるかぎりその発生状態のままに、あらためて聴き取り直すこと。それが、本書でまずはじめに意図されたことである。

一冊の書物のなかには、一つの音色が隠されている。そのかすかな音を聴き分け、さらには他の書物から抽出されたいくつかの音と交響させ、そこにいまだかつて誰も聴いたことがなかったような音楽を奏でること。「作家」とは、おそらくそのようなことができる人物を意味するのであろう。


このあたりは、文献学に通じるところでもあり、大いに参考になるところです。

これからのエリック・ホッファーのために:在野研究者の生と心得

以前、こちらでも触れましたEn-Soph 在野研究のススメが書籍化されましたので、早速購入いたしました!

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

内容については、こちらに詳しく載ってます。タイトルにエリック・ホッファーを持ってくるあたり、著者の面目躍如な感じがします。その波乱万丈な人生もそうですが、学術機関に頼らずに、しかも絶望的な状況の中で働きながら読書と思索を続け、独自な境地に到達した沖仲士の哲学者。彼についてはこちらがマスト文献。

エリック・ホッファー自伝―構想された真実

エリック・ホッファー自伝―構想された真実


昨今の文系の大学が危機的であることは、皆さんがご承知の通り。若手が安心して研究できる場なんてもうないのかもしれない。

しかしそれで終わりだろうか?明らかに、そうではない。たとえ大学が終わったとしても、私たちは生きている。生きて働いている。そう、小さなホッファーのように。ならば、彼がそうであったように、私たちもいまここから学問的研究への小さな一歩を踏み出すことができるはずだ。

大学なんて終わるのなら終わればいい。でも、私たちは終わらない。そして、私たちが愛する研究の営みも終わらない。大学が終わるのが惜しいのならば、終わったあとに、また一から始めたらいい。大事なのは「廃墟と化した大学を嘆くのではなく、廃墟のあとにいかなる未来図を描くのか」

在野研究とは、アカデミズムに対するカウンター(対抗)ではなく、オルタナティブ(選択肢)なんだとは、まさしく言い得て妙だと思いますが、本書は先人である在野研究者の歴史を辿り、そこから在野研究の心得を打ち出してます。


その最後の、そして本書最大のメッセージでもある心得が、

この世界にはいくつもの<あがき方>があるじゃないか?


というもの。

研究をやりたいといっても、別に大学に所属しなくてもいいじゃないか!、在野研究者という選択肢があるじゃないか!そう我々を導き、激励してくれる数々の先人たちを知る、それは自らが前へ進むための見取り図にも、支柱にもなるでしょう。


個人的には、こういう本が出たことをとてもうれしく思います。


というか、在野研究者の端くれである私にとって、非常に勇気付けられました。

YOGA BODY

私は別にヨーガを実践しているとか、そういうのではないのですが、ここしばらくは、パタンジャリのヨーガ・スートラとその注釈書を読んでましたので、その関係で、この本が気になって買ってみました。

ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源

ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源

今日、私たちはヨガと言えば独特のポーズを連想するが、ポーズ練習を中心に据えたそのスタイルは、なんとインド古来のものではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての近代化に際して、欧米の体育、ボディビル、女子体操などの要素を取り入れながら、インド国民のための体育の技法として創られたものだった! ヨガ実践者が読んでおくべき最も洗練されたヨガの教養書のひとつであり、近現代の歴史書としてもすこぶる興味深い一冊。


「伝統は創られる」、それは何もインドに限った話ではなく世界中に見られることですが、近代のヨガが古典とは断絶したもので、欧米の身体文化、健康志向、政治的社会的な思惑・・・など様々な要素が絡み合った結果出来上がったものだというのを文献的に跡付けようとしているのは圧巻といえるでしょう。巻末の文献リストも参考になります。


本書の最後に、興味深いエピソードが紹介されてます。それは、近代インドのヨガと近代のオリンピックが、同じ根を持つ精神性―心身相関のフィットネスの理想を持つギリシアの影響―に由来していて、最初のアテネオリンピックと、ヴィヴェカナンダの『ラージャ・ヨーガ』の刊行が同じ1896年であったという事実です。奇しくも同じ年に、近代の身体文化と近代のヨガが国際舞台に現われたというわけですが、まさにこれはヨガと身体文化の結びつきの象徴といえるのではないかと結んでいます。

史上最高の「序文」と「出版後記」

こちらは、店番をしながら思わず手に取り、読んでしまった本。

漢和辞典に訊け! (ちくま新書)

漢和辞典に訊け! (ちくま新書)

ちょっと前に出た本ですので、読まれた方も多いと思います。
著者は漢和辞典の編集者を長年務められた方で、初心者が漢和辞典を使う際の引き方から始まって、漢和辞典によって、漢字の音読み、成り立ちを調べるなど、その用途を実例を挙げて説明してます。

漢和辞典は「わかりやすい」書物ではない。読み解くには、少々の予備知識が必要だ。たとえるならバイオリンのようなもので、初めて手にした瞬間から、すぐさまたのしめるようなものではない。楽器らしい音を鳴らすことができるようになるまでには、それなりの訓練が必要なのだ。


古典語というのは、辞書を引いて使いこなせるようになるまで、時間がかかるものです。漢和辞典も然り。個人的には、仏教をやっていると、呉音読みの縛りがあるので、漢字の読み方を調べるなど利用することはありますが、それほどの頻度で使ってるわけではありません。しかし、一を調べて十を知る、そんな漢和辞典の使い方を教えられた気がして、もっと利用したい気持ちになりました。


一気に読める感じで、それでいて随所にいろいろなことを教えてくれる良書です。
思わずこちらの本を思い出してしまいました。

『大漢和辞典』を読む

『大漢和辞典』を読む


本書の中で、『大漢和辞典』の諸橋先生の序文と、出版社・大修館書店社長による「出版後記」は何度読み返しても、熱いものがこみ上げてくると言われてますが、それもむべなるかな。こんな「序文」と「出版後記」って他にあるだろうか?と呼べるレベル。人の生き方とは何か?それを示しているかのようなレベルのアツいものです!


kanjibunka.com

kanjibunka.com

この辞典には、約三十五ヶ年間に亘る私の魂が打ち込んである。私存命中に再び版を新たにすることは出来まい。将来補筆出版の必要が生じた際は、私の子孫が責任をもって、大修館書店の名前のもとに必らず遂行するよう申し置いて行く。この辞典が世の中に一揃いででも残って活用される限り、諸橋先生と共に私の生命が永遠に続くものと確信して、ここに出版後記とする。


大漢和辞典』の初版全13冊(縮写版)は、1万円も出せば全巻買えてしまう時代になってしまいましたが、「一国文化の水準とその全貌を示す出版物」としてそれだけ普及したということなんでしょう。冒頭の書を読んで、何だか、大して使えもしないのに、なぜか諸橋大漢和を手元に置きたくなってしまいました…(笑)。

休学を終えて…

2016年も気づけば2月・・・。

遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。


来月で3年に及んだ休学期間が終わります。復学するか、退学するか、選択を迫る通知が大学事務局から先日来ました。
その通知とともに、私の先輩の博士論文公開口頭試問の通知も届く。


その素晴らしい研究を目の当たりにして、果たして、復学して自分にもそのような博士論文が書けるのか?自問自答を繰り返しておりました。いくら考えても堂々巡りになってしまいますので、結局は、これから自分で答えを出していくしかないのでしょう。その間、仕事の方もいろいろあって、あと最近マラソンにハマって、勉強そっちの気で走ってばかりだったり(笑)、そんなんで更新が遅れてしまいました。


前から常々思っていることですが、こういう、自分が行き詰ってこれからどうしようかなと思っている時に限って、どういうわけか、知り合いの先生であったり、学友であったり、そういう方々がふらっと店にいらっしゃる。まるで、こちらの窮状を見計らっているかのように(笑)。そこでいろいろお話させていただくことで、自分も何かしらのパワーをもらって、自分もやらないとなぁと思い直すことができる、そういう経験が今まで何度となくありました。まさに「有朋自遠方来、不亦楽乎」。


気づけば、今年の9月開催の印仏学会の案内も来ていました。以前ちょっと触れましたが、ヨーガスートラと楞伽経というような内容で発表できないかと思ってます。


furuhon-ya.hatenablog.jp







 

年末年始の読書

今年ももうすぐ終わり。毎年この時期になると、ついついいろいろと本を買ってしまいます。

まずはこちら。

漢文入門 (学芸文庫)

漢文入門 (学芸文庫)

なんか、いつも「漢文入門」という本が出るたびに買ってしまってる気がする。いつまでたっても読む力がないからなんですが、この本は漢文を読むためというよりは、そもそも漢文とは何か?というところに焦点を当てている、非常にユニークな本です。前書きに、「「漢文」を宣伝するためでもなく、「漢文」の学力を増進させるためでもなく、ただ「漢文」とはどのようなものかということを明らかにするだけの目的で、私はこの本を書く」とあります。訓読についても原理原則を平易に解説し、それが歴史的に成立する過程も紹介されていて、日本人がどのようにして漢文を読んできたのかが簡潔に分かるようになっています。それを通して、日本人にとって漢文とは何か?という一種の文化論にまで達している点で、他に類書がない入門書になっていると思います。興味深く読ませてもらいました。



次はこちら。

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

出たのはもうかなり前。末木先生は多作ですので、読みこぼしも結構あって、市場で見かけて気づくことも多いです。その都度買い求めては読むようにしてます。哲学と仏教双方に通じておられ、それらを消化された上で、独自の宗教哲学を展開されている末木先生ですが、その哲学の基点には、他者、死者という<語りえぬもの>を如何に語るかというのがあると思います。その<語りえぬもの>には、<私>というのも含められます。<私>は自分で統御できない多くの不透明な闇を抱えている。<私>によって知られず、<私>の自由にならない<私>は本当に<私>といえるのか?<私>は「どうしようもない」<私>(山頭火)でもあるがゆえに他者でもあり、他者は「私に対して何をしでかすか分からない」存在で、それによって日常の世界は常に突き破られ、<私>に迫ってきます。そうした現場にこそ、宗教と哲学が生じてくるというのが著者の立場で、本書は上田閑照著『私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))』への書評に始まり、和辻の「人の間の」倫理に触れつつ、田辺元の死の哲学、清沢満之の哲学、後半は現在の問題について展開していきます。仏教をはじめとする観点から、西洋哲学を相対化しているその深い考察にはいつも感服させられます。



最後に、こちら。これは年末年始の休みに読もうと買ってしまったもの。木村泰賢という方はおよそ100年前に活躍された仏教学者で、宇井白寿と同期で、いわば近代仏教学の先駆者、「道なきジャングルに進歩の大道を切り開いていった巨人」*1といわれてます。特に高楠順次郎との共著である『印度哲学宗教史』や『印度六派哲学』は、日本で初めてヴェーダからウパニシャッド、各学派の成立を直接原典に接してまとめたものであり、その意味では記念碑的なもの。100年前とはいっても、まだまだ現代にも読み継がれてまして、現在はオンデマンド版として出ています。その他、アビダルマの三世実有の時間論を映写機のモデルを使って説明したというのも有名ですが、ヨーガ学派への仏教の影響を論証した「印度仏教と瑜伽哲学との交渉」など個人的にもいろいろと眼を通しておきたいのも多いので購入しました。

新国訳大蔵経 楞伽経

早いもので、今年も残りわずかとなってきました。例年12月前半は慌ただしくなります。まずは、古書会館での大市が準備期間も入れて丸一週間あり、その間ずっと店を留守にしてました。そしてその後は、自店の目録発行とその対応、その合間をぬっての出張買取と本の整理、店を空けることが多かった分、仕事も溜まり、残務整理も多くなります。

そんな中、新国訳大蔵経から楞伽経(四巻本)が出たようです。高崎先生の仏典講座『楞伽経』に、堀内先生が追加する形を取っているらしく、そのために御二方の共著という体裁になっているみたいです。まだ手元にないので、何ともいえないのですが、四巻本は今まで高崎先生の部分訳を除いて国訳(いわゆる書き下し文)が出てなかったので、ようやくという感じでしょうか。私も早く見てみたいのですが、もう少し時間がかかるようです。

楞伽経 (新国訳大蔵経[インド撰述部]8如来蔵・唯識部2)

楞伽経 (新国訳大蔵経[インド撰述部]8如来蔵・唯識部2)

インド仏教思想の宝庫でありながら、禅仏教の「不立文字・教外別伝」の拠り所となった経典、『四巻楞伽』の全貌!
初期禅宗以来、中国・日本で重要視された『四巻楞伽』。しかし多岐にわたる思想内容と曖昧な表現に加え、梵文の語順のままに漢語を配列した特殊な訳文が頻出するこの漢訳経典を、漢文脈のみから理解することは甚だ困難であった。
本書は、梵語原典・チベット語訳・他の漢訳との厳密な比較対照を踏まえて、難解きわまりない経文の論旨を丹念に読み解いた、待望の訳註書である。

この解説にありますように、四巻本は、漢文としては難解ですが、梵文の直訳調になっているため、元のテクストの推定に役立つという面もあり、テクストとしての重要性は高いと考えられてます。そこで、常盤先生の研究があるのですが、これは私家版のような感じであまり見ることもなく、入手困難な状況でした。というわけで、今回の新国訳大蔵経は当に待望の書という感じです。