古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

年末年始の読書

今年ももうすぐ終わり。毎年この時期になると、ついついいろいろと本を買ってしまいます。

まずはこちら。

漢文入門 (学芸文庫)

漢文入門 (学芸文庫)

なんか、いつも「漢文入門」という本が出るたびに買ってしまってる気がする。いつまでたっても読む力がないからなんですが、この本は漢文を読むためというよりは、そもそも漢文とは何か?というところに焦点を当てている、非常にユニークな本です。前書きに、「「漢文」を宣伝するためでもなく、「漢文」の学力を増進させるためでもなく、ただ「漢文」とはどのようなものかということを明らかにするだけの目的で、私はこの本を書く」とあります。訓読についても原理原則を平易に解説し、それが歴史的に成立する過程も紹介されていて、日本人がどのようにして漢文を読んできたのかが簡潔に分かるようになっています。それを通して、日本人にとって漢文とは何か?という一種の文化論にまで達している点で、他に類書がない入門書になっていると思います。興味深く読ませてもらいました。



次はこちら。

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

出たのはもうかなり前。末木先生は多作ですので、読みこぼしも結構あって、市場で見かけて気づくことも多いです。その都度買い求めては読むようにしてます。哲学と仏教双方に通じておられ、それらを消化された上で、独自の宗教哲学を展開されている末木先生ですが、その哲学の基点には、他者、死者という<語りえぬもの>を如何に語るかというのがあると思います。その<語りえぬもの>には、<私>というのも含められます。<私>は自分で統御できない多くの不透明な闇を抱えている。<私>によって知られず、<私>の自由にならない<私>は本当に<私>といえるのか?<私>は「どうしようもない」<私>(山頭火)でもあるがゆえに他者でもあり、他者は「私に対して何をしでかすか分からない」存在で、それによって日常の世界は常に突き破られ、<私>に迫ってきます。そうした現場にこそ、宗教と哲学が生じてくるというのが著者の立場で、本書は上田閑照著『私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))』への書評に始まり、和辻の「人の間の」倫理に触れつつ、田辺元の死の哲学、清沢満之の哲学、後半は現在の問題について展開していきます。仏教をはじめとする観点から、西洋哲学を相対化しているその深い考察にはいつも感服させられます。



最後に、こちら。これは年末年始の休みに読もうと買ってしまったもの。木村泰賢という方はおよそ100年前に活躍された仏教学者で、宇井白寿と同期で、いわば近代仏教学の先駆者、「道なきジャングルに進歩の大道を切り開いていった巨人」*1といわれてます。特に高楠順次郎との共著である『印度哲学宗教史』や『印度六派哲学』は、日本で初めてヴェーダからウパニシャッド、各学派の成立を直接原典に接してまとめたものであり、その意味では記念碑的なもの。100年前とはいっても、まだまだ現代にも読み継がれてまして、現在はオンデマンド版として出ています。その他、アビダルマの三世実有の時間論を映写機のモデルを使って説明したというのも有名ですが、ヨーガ学派への仏教の影響を論証した「印度仏教と瑜伽哲学との交渉」など個人的にもいろいろと眼を通しておきたいのも多いので購入しました。