空の思想史

空の思想史 (講談社学術文庫)前回、三性説を持ち出したついでにこちらの本を何となく手にとる。「空」という概念も時代と場所によって色々な意味を持ち、それを視点にして仏教史を捉えてみると面白いよというのが本書です。もともとインド人の考え方として、基体(ダルミン)と属性(ダルマ)というのがあります。“この本は重要だ”という命題は、インド風にいうと、“この本に重要性がある”となります。つまり、基体(この場合の本)に何らかの属性(重要性)があるというわけです。よって、空というのも、あるもの(a)においてあるもの(b)が存在しないとなります。ただ、龍樹の場合、基体も属性もないことを主張したわけで、そういう点からすると、インド人の考え方として、ある意味で「革命的」であったといえるそうです。


でも、その基体と属性をめぐって学派によってはいろいろと考え方も異なってくるようです。基体からあらゆる属性を抜いていったとき、何が残るのか?そこに言語によってはとらえられない何らかの“もの”が残るという人もいれば、何も残らないと考える人もいる。インドではグプタ朝を過ぎる4世紀から6世紀にはヒンドゥー哲学の諸派が成立するそうで、そうした時代背景も手伝って、すべての存在を空へ導くという話がなかなか通じなくなってくるようです。「自性」というのも本来は否定されるべき“悪い”側面のみを意味していましたが、次第に肯定される側面が出てきます。


そういう面から、現象としての五蘊は存在しないが、本質としての空性は存在するという考え方も出てきたのでは…と思います。それは如来蔵思想で、いってみれば、仏教の名を借りたヒンドゥー哲学のような考え方。瑜伽行派・最初期の『菩薩地』では、善取空(正しく理解された空性)として、言語によって名づけられたものは存在しない。しかし、その所依である、なんらかの事物(vastu)は存在する。すべては事物のみ(vastumātra)で(!)、それを如実に知ることが善取空に入ることなんだといわれてます。その後になって、すべては識が現れた存在に過ぎず、勝義には識も存在しないというように説かれるのは、そうした明らさまな実在論を隠蔽する仏教本来の狙いもあったのではないかといわれてます。


ともかく、やがて中国を経て日本に伝わった空の概念がどのように変遷したか?その点で一貫した理解を得る上でも、本書は役立つ良書であると思います。個人的には、上述の唯識の空性理解とかが省かれてるのが気にはなりますが…。ま、如来蔵の中に含められてしまったといえば、そうもいえるような感じではあります。

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