古本屋の研究日誌

古本屋として働きながら博士号を取得するまでの軌跡

近況…

ちょっと間が空いてしまいました。先日来、『楞伽経』の偈を読んできましたが、よく分からないところがいくつかありまして、ああでもない、こうでもないと考えていると時間ばかりが過ぎ去っていったこの一週間でした。

例えばこういう偈があるんですが、

ajñānatṛṣṇākarmaṃ ca cittacaittā na mārakam |
pravartati tato yasmāt pāratantryaṃ hitaṃ mayā ||50||


これに対する安井訳は、

無知・渇愛・業は、心心所の作者(kāraka)である。それら(無知・渇愛・業)より生起するから、わたしによって、(心心所)は依他起(pāratantrya)であると。と定められる。

とあります。
これはmārakaというのをkārakaと訂正して訳しているんでしょうが、そうだとしても、普通に訳すとそういう訳にはならないと思います。そもそも、「na」はどうなってるんだろう…。以前にも触れましたが、安井訳は註とかがないんで、よく分からないんですよね。

ということで、蔵訳を見てみると、

MI SHES PA DANG SRED DANG LES, ,SEMS DANG SEMS LAS BYUNG GNAS TE, ,GANG PHYIR DE LAS 'BYUNG BAS NA, , DE NI GZHAN GYI DBANG DU 'DOD, ,

無知・渇愛・業(las?)は心心所に依っていて(あるいは、生じさせる?gnas te)、それゆえ、それから生起するならば、依他起であると見なされる。というような意味だと思うんですが・・・(自信なさげ 苦笑)、そうだとすると、上の梵文はどうなるんだろう??多分、安井訳は蔵訳をもとに訳しているんだとは思うのですが…。


足踏み。


というか、こういうのがいくつかあって頭を悩ませております(苦笑)。私の無知さを曝してしまうようで、お恥ずかしい話なんですが・・・。