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起源を問うということ

f:id:furuhon-ya:20110629123153j:image:right:w150出たばかりのこちら、早速買いました。『講座・大乗仏教』が出てから30年。その間に進展した仏教学の成果を反映した新たな大乗仏教研究シリーズ。旧版では第1巻「大乗仏教とは何か」1冊にまとめられていた内容を、新シリーズでは3巻にわたって、拡大されてます。前シリーズからの改訂ということですと、やはり平川彰の大乗仏教・在家仏塔起源説から、グレゴリー・ショペンらによる新たな説の展開というのが大きかったのだと思います。それは、起源を問うということに対する反省になるんでしょうか。


以前は、歴史的ブッダから仏教がはじまり、(所謂)小乗仏教へ展開し、そして、紀元前後に大乗仏教という新しい仏教改革運動が起こったという、直線的な流れとしての仏教史のイメージが共有されてました。ところが、どうもそうでもないらしいということが近年になって明らかになってきました。単一的な起源を問うよりも、むしろ、はじめに経典形成という大乗仏教が多様な形としてあって、それが後代になって、大乗という単一性を獲得していったというのです。

一つの起源から大乗が生まれて拡散、展開したのではなく、そもそも大乗は諸現象の集合として拡散して存在していたのであり、後代になってその本質を規定し、運動を単一化する動きが重なったのが、おそらく全体としての歴史的推移である。それは従来の<直線的理解>によってとらえる大乗の歴史展開とは、ちょうど反対の向きにある。(p.47)

もし大乗というものが、ある特定個人によって創成された単一の思想であったなら、その情報が後の大乗経典に記録されていた可能性は高い。それならば大乗の起源問題はとうの昔に解決したはずである。しかし永年の研究にも拘らず、大乗仏教は一つの起源に収束しない。それは先にも述べたように、大乗という運動が単一起源から発生したものではなく、同時発生的な一種の社会現象として現れてきたものであることを示している。その場合には、同時代の当事者一人一人に事の全貌は見えていないわけであるから、我々が研究の対象としている問題のすべてを一人で正しく把握していた人間は当時誰もいなかったということになる。(p.81)


このように言われてみると、確かによく分かるのですが、以前平川説があれほどの影響力があったことを考えると、研究者にとって、そのような単一起源説を想定するというのはある意味、陥りがちな罠に思えてきますねぇ…。